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ユトリロ(箱根湯本)

駅伝通りの画廊喫茶

 ロマンスカーに乗って、箱根湯本にやってきた。山側のホームに箱根登山鉄道の古い車両(昭和25年製のベテランがいまだに活躍しているのが素晴らしい)が停まり、左手に国道1号(東海道)と早川の広々とした流れが見える。近頃、度々箱根を訪れているので、このアプローチの景色もすっかり馴染んできた。
 先日、北品川の店(第96回・この路)を取りあげたときにちょっとふれたかと思うが、箱根駅伝コースを少しずつ歩いていくエッセー本の仕事も、いよいよ大詰めの箱根地区へ差しかかったわけである。
 箱根へ入ると、すぐに登山電車やバス、車を使って宮の下や強羅、芦ノ湖、と山上の方へ移動してしまう人は多いのかもしれないが、湯本の町も歩いてみると面白い。ミヤゲ物屋が並ぶ国道沿いを少し進んで、温泉場入口の所から左手に入ると、早川の向こうに昔ながらの湯本温泉街が広がっている。万寿福旅館や萬翠楼福住、ソバの名店・はつ花......ちなみに旧東海道は旅館街の南方、須雲川沿いを進んでいく筋だから、湯本の温泉場はいまの裏っ側の方から栄えたのだろう。
 表の国道(東海道)にも、昭和初期レベルの古建築がちらほらと見られる。日交ハイヤーの営業所などはいかにも"避暑地の年季"を感じさせるし、その並びのカフェも何かの古商店を借り受けたものだろう。そして、もう少し駅寄りの所に、以前から目についていた喫茶店がある。
 玄関先にクラシックなコーヒーミルを象った立て看板があり、肖像画とともに掲げられた店名はユトリロ、コンクリート造りの洋館はちょっとした美術館を思わせる。
 入ってみると、予想以上に天井は高く、コロニアル調の扇風機が一つ二つと備えられ、白壁に2列、3列と絵画が展示されている。〈サンノワの風車〉〈サン・ピエール広場〉〈ゴブラン通り〉......フランスの風景を淡白な色調で描いた作品の多くは、店名のユトリロのもののようだ。そんな白壁のたもとの棚台には彫刻類が陳列され、客席のない店奥の通路際まで絵画や彫刻が並べられている。
 店内は年配の観光客でけっこう混み合っていた。山の方をかなり歩いた帰りがけ、ノドがカラカラだったのでアイス珈琲を注文、このところ、ちょっとハマリ気味のアップルパイを追加すると、香り高い焼リンゴに干しブドウがちりばめられて、パイ皮がパリッとしたコレ、掛け値なしにウマイ! 昼食から2、3時間の頃だったので断念したが、何人かの客が食べ、残り香が漂っていたカレーライスもとても旨そうだった。
 従業員は3名の女性のようだが、カウンターの中のちょっとシャレた雰囲気の老婦人が店の主と思われる。
「ここ、画廊も兼ねてるんですね......」
 取材の良し悪しを軽く探るべく、トイレへ向かいがてら話しかけると、
「ウチ、絵は売りませんよ」
 けっこう粗野な口調で返された。
 僕のことを不審な画商とでも思ったのか、何にせよ、取材はダメか......となかば諦(あきら)め気分でもう一度来意を告げると、老婦人、にこやかな顔つきで対応してくれた。
「さっきは忙しかったんで、乱暴ないい方しちゃってごめんなさいね」
 生成(きな)りのベージュとグレーの色調でコーディネートしたマダム・河野元枝さんは、いかにも芸術家風だ。一瞬、展示された絵画のなかに、彼女の自作もあるのでは?と思ったのだが、ほとんどは収集してきたユトリロの作品。店名に掲げるくらいだから、相当の愛好家なのだろう。
「もともとウチは百年続いた陶器屋だったんですよ。大山セトモノ店っていう。昭和50年に店閉めて、喫茶店にして、この建物は平成元年に建てたものなんですよ」
 いろいろとデザインのリクエストをした、というけれど、てっきり昭和戦前の洋館かと思いこんでいた。
「天井なんか、タバコのヤニでいい感じに汚れたの」
 棚台に並んだ立体的な作品群は、四谷シモン作の人形あり、秋山祐徳太子作のブリキ・オブジェあり......バラエティーに富んでいる。皆さん、親しい御友人らしい。
 ところで、気になったカレーライス、やはりそれを目当てに訪れる客も多いという看板メニューのようだ。
「鶏を丸ごと使って、一週間ことこと煮込んで仕上げるんですよ。11月3日の大名行列とお正月の駅伝で混み合うときの臨時メニューで始めたの、カレーだと一度作っちゃえば楽でしょ」
 ユニークな彫刻が並ぶ窓越しに、カレーを味わいつつ"5区山上り"導入部の場面など一度眺めてみたいものである。

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泉麻人
著者プロフィール

泉麻人(いずみあさと)
1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。東京に関する著作を多く著わす。
近著に『50のはえぎわ』(中公文庫)『お天気おじさんへの道』(講談社文庫)『シェーの時代』(文春新書)などがある。