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パーラー コイズミ(秩父)

夜祭の町のチョコレートパフェ

 西武の池袋駅から朝8時30分発の特急レッドアロー号に乗る。めざすは秩父、久しぶりになかむら画伯と編集者Sを伴っての"遠方喫茶紀行"を取り行なうことになった。僕の生家は東長崎から近い所だったので、この沿線はなじみ深い。秩父まで待望の特急が走ったのは昭和44年10月14日、その記念乗車券を大切に保存している。昔は石神井公園の手前あたりで田畑の景色が広がって、田舎気分が昂まったものだが、いまどきは所沢を過ぎて、ようやく田園風景が目につくようになる。スイッチバック式の飯能駅に入って、ここからは後ろ向きのおちつかない姿勢で進んでいく。線路も単線になって、特急とはいえスピードは遅い。吾野を過ぎると山景色も深まって、午前10時を廻った頃に終点の西武秩父に着いた。
 駅前には露店が並び、人々が集まり始めていた。そう、この日は12月3日、日本三大曳山祭りにも数えられる「秩父夜祭」(2、3日開催)の山場だったのだ。実は、去年この夜祭を見物に来ている。今回は祭りに予定を合わせたわけではなく、3人のスケジュールの都合でたまたまこの日になってしまった。ライトアップした笠鉾や山車が出る夜は、一歩進むのもやっとというほどの人混みになる。喫茶店探訪が目的だから、まだ人出の少ない早い時間に訪れることにした。
 本山の秩父神社の方へ歩いていくと、すでに通りの所々に山車が出て、台車の上の舞台で晴着姿の少女が舞踊を披露していた。舞踊や芝居を見せるのは日中、と地元の人から伺ったけれど、こういう夜祭の前座的な雰囲気もなかなかいいものだ。神社の境内で催されていた舞踊には、ずらっとカメラマンの列ができていた。彼らは「マッちゃん」とでもいおうか、祭りを専門に撮っている写真愛好家と思われる。
 神社門前の番場町の界隈には、思わずカメラを向けたくなる、古めかしい建物がよく残っている。アールデコ建築の煙草店、大正年間の創業年を記した豚味噌漬の安田屋、その隣りの「パリ―食堂」はいかにも昔の歓楽街の大衆レストランの風情が漂っている。2階が座敷間になっていたが、秩父銘仙などの織物業で栄えた昔、芸者さんが入って宴が催されていたのではないだろうか。そんな番場町の一画に「パーラー コイズミ」という喫茶店がある。
 レンガをちりばめた外壁にスイスの山小屋風の窓が見える。2階建ての建物は、先の安田屋やパリ―食堂ほどの古さではないが、それなりの歴史が感じられる。ハンバーグやナポリタンなどの洋食メニューもあるが、パリ―食堂でソースカツ丼を食べてしまった。カフェオレを注文し、自慢のチョコレートパフェを3人でシェアしつついただくことにする。
「ウチが秩父の喫茶店で初めて生クリーム使ったパフェ、出したんですよ」
 と、マスターの小泉健さん。開業は昭和42年、そもそも小泉さんのお宅は近くの和菓子屋だった。

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「兄がそちらを継ぎまして、私は上京して上野の永藤パンのグリルでしばらく修業したのです」
 永藤パンの店は、ひと昔前の上野周辺には何軒かあった。マスターは創業当時のチラシやメニューを大切に保存されていて、これがなかなかシャレている。
「太陽がまぶしくなりました五月! さあティーンの季節です。その鮮烈な初夏の匂いをパーラーコイズミは、そっと秘めて甘く甘くかわいらしく開花しました」
 これは、知人のデザイナーがイラストとともに手掛けたという開店チラシのコピーだ。パーラーという店名も含めて、この町の若い女性をターゲットにしていたのだろう。
 ところで、この辺の町名は番場町だが、すぐ先の秩父鉄道の駅名は「御花畑」という。近くの自然公園に育成された芝桜にちなんで、(芝桜)と副名が添えられているが、そもそもレンゲなどの野花が目につく原っぱが広がっていたような土地だったらしい。
 開店の宣伝コピーは、そんなお花畑のパーラーの雰囲気がよく表現されている。帰り際に創業当時の可愛らしいマッチをいただいた。

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泉麻人
著者プロフィール

泉麻人(いずみあさと)
1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。東京に関する著作を多く著わす。
近著に『50のはえぎわ』(中公文庫)『お天気おじさんへの道』(講談社文庫)『シェーの時代』(文春新書)などがある。