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珈琲苑 憩(行田市)

のぼうの城下町のフライ

 御花畑から乗った羽生行きの秩父鉄道は、ほぼ荒川の流れに沿うように進んでいく。秩父の町を散歩しているとき(前回参照)、ちらっと見掛けた電車は昔のオレンジ一色時代の中央線だったが、僕らが乗った電車は〈平成2年〉の製造年を記した銀に青帯の京王線。この鉄道は、東京を去ったちょっと古い車両と出会う愉しみがある。長瀞の川景色や鬼石あたりの山稜を車窓に眺め、寄居を過ぎて、やがて熊谷の市街に入ってきた。今回立ち寄るのはその先の行田(ぎょうだ)。JR高崎線に、ただの「行田」があるけれど、秩父鉄道の方は「行田市」で、こちらの方に本来の町が広がっている。
 駅を出てちょっと行くと、町角に「忍」という町名表示板がある。「おし」と読むこの名は、近頃映画化された『のぼうの城』の舞台・忍城が存在した地。市役所の裏に往年の掘割と小さな城郭が再建されている。僕は野村萬斎主演の映画を観たけれど、石田光成の水攻めのシーンで、決壊した利根川(堤防)から、平地をドーッと津波みたいな洪水が押し寄せてくる......ってのが、いくらなんでも納得いかなかった。ま、その辺は娯楽映画の演出なのだろうが、実際忍城は"水辺に浮く"特異な低地の城として知られていた。
 城郭内は歴史博物館になっていて、近代のコーナーの主役は足袋。江戸の享保年間の藩主・阿部正喬(まさたか)が藩士家族の副業として奨励したのを発端に、明治から昭和の前半期にかけて、足袋生産は行田の看板産業だった。現在、市内の足袋工場は数えるばかりとなったようだが、歩いていると、昔の足袋蔵が所々に残っている。保存建築に指定されていたり、あるいは、レトロな足袋蔵を再利用したレストランなども見られる。そして、もう一つ、飲食店の店頭に目につくのが〈ゼリーフライ〉と〈フライ〉の旗看板。ローカルフードがブームの昨今、しばしばマスコミでも取りあげられるようになったけれど、僕が初めて存在を知った10年ほど前は、派手な看板の類はまだ見当たらなかった。
 フライとゼリーフライ、名前は似ているが構造はかなり違う。前者は鉄板で焼く、いわば「お好み焼」であり、後者はオカラを主体にしたコロッケ風の揚げ物。頭に付くゼリーは、小判に似た格好から「銭」フライ、それが訛ってゼリーとなった......という説が有力だが、やわらかいオカラをゼリーにたとえた......というベタな説も聞いたことがある。そして、いずれも忙しい足袋工場の職工さんの間食やオヤツとして根着いたという。この辺は神戸長田の工場地帯で発祥した「そばめし」とよく似ている。
 古い建物が目につく行田商店街近くの「珈琲苑 憩」は、木造2階屋の素朴な佇まい。ここは玄関口のメニューに、フライもゼリーフライもラインナップされている。 
 店内は、一般家庭のソファーを適当に配置したようなムードで、厨房のおかみさんとサポート風の老女が何やら世間話をダベっている。僕らが席につくと、サポート風の女性が日本茶を振る舞ってくれた。当初、店の関係者と思っていたら、どうやら彼女は近所の常連さんで、以前は足袋を作っていたらしい。
「工場に通わなくても、昔はどこの家もミシンで足袋の内職やっていたのよ」
 尤も、足袋用のミシンは特殊なもので、使いこなすにはそれなりの訓練がいるという。
 厨房の鉄板で焼きあがったフライは、ねぎと豚のひき肉だけを具にした至ってシンプルなお好み焼。昔、東京で神社のお祭りなんかに来る屋台のお好み焼を「どんどん焼」といったが、素朴な感じはアレに近い。しかし、なぜコレをフライと呼ぶようになったのか? 家庭でフライパンを使うことからそうなった......と聞いたことがあるけれど、信憑性は定かでない。
 ところで、10年前に取材に来た頃は、お隣りの熊谷でフライやゼリーフライといっても通じない、逆に行田で「お好み焼」の看板を出しても客は来ない......なんて伝説を伺った。なんとなく、「忍び」の城下町の風土が連想されてくる。

※今回は最終回となります。長い間ご愛読ありがとうございました。
  この連載をまとめた単行本が2013年に発売予定です。

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泉麻人
著者プロフィール

泉麻人(いずみあさと)
1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。東京に関する著作を多く著わす。
近著に『50のはえぎわ』(中公文庫)『お天気おじさんへの道』(講談社文庫)『シェーの時代』(文春新書)などがある。