ぼくの道具 石川直樹

第三回 寝袋

 ネパールのルクラという村からエベレスト・ベースキャンプへと続く一本道、通称エベレスト街道は、トレッカーの聖地のような場所である。街道沿いにはバッティと呼ばれる茶屋があり、そこにはトタンでできた薄い壁で仕切られた部屋に、簡素なベッドが二つ置かれている。ベッドには、一応クッションが敷いてあり、旅行者はそこで一夜を過ごすことができる。気の利く茶屋では、部屋に毛布が用意されていて、それにくるまって眠ることもできるのだが、多くの茶屋には毛布すらないこともしばしばで、持参した寝袋を使って眠ることになる。
 ナムチェバザールという谷間の村に至るまで、すなわち標高4000メートルを超える手前までは寝袋なしでもなんとか眠れる。が、それを越えると、粗末な掛け布団や毛布だけではきつい。茶屋の部屋はすきま風もあって、とにかく寒いのだ。
 寒さというのは苦しさと直結していて、あらゆる身体の動きを止めてしまう。暖かければ何でもできるが、寒さは行動する意思まで削いでいくから恐ろしい。そのようなことを考えはじめるのも、ぼくの場合はこのあたりの標高からである。太陽の光を心からありがたく感じるようになるのも4000メートルを超えたあたりからだろう。
 粗末な部屋とはいえ、室内にいてもこんな感じなので、標高5200メートルのベースキャンプに着いてテント生活がはじまると、より高いレベルで寒さとの戦いがはじまる。それよりさらに上のキャンプともなれば、言うまでもない。ここで重要となるのが、何より寝袋である。
 朝、暖かな寝袋から出るのがつらい。そうした幸せなひとときを提供してくれるのも寝袋だし、がちがちに震えて地獄を見させてくれるのも寝袋である。寒くて眠れないなどという経験はほとんどないので、ぼくはこれまで寝袋の選択をさほど誤ってはいないはずだ。
 4000メートルを超えるような場所に行くときは、ノースフェイスの「ソーラーフレア」という羽毛のモデルを使っている。この寝袋を使っていて寒さを感じたことはない。逆に言えば、下界でこの寝袋を使うと暑すぎて眠るどころじゃないかもしれない。
 ぼくはこれまで数え切れないほどの種類の寝袋を使い、あらゆる状況下で眠ってきた。ミクロネシアではふんどし一枚を着用し、ごく薄い寝袋を使って寝た。灼熱のアメリカ南部、ニューメキシコあたりでは、寝袋さえ使わずにシュラフカバーをかけて寝た。北極や南極のテント生活では、二重になった重い寝袋にくるまった。はじめての6000メートル峰であるアラスカのマッキンリーに登ったときは、ジッパーなしで潜り込むタイプの羽毛軽量寝袋を使った。中学生の頃に行った冬の奥多摩縦走には、はじめて自分で購入したオレンジ色のモンベル製ダウンハガーという寝袋を持参した。
 生まれてはじめて寝袋を使って寝たのは、小学生の頃の夏合宿だったと記憶している。ぼくが通っていた都内の男子校には、那須合宿という夏の恒例行事があった。その名の通り、栃木県の那須にある校舎に数泊しながら、オリエンテーリングなどの野外活動を行うというもので、ぼくはこの行事が好きだった。
 那須合宿に参加するにあたって、各自、リュックサックと寝袋を購入させられた。学校で決められたものだから、全員おそろいである。はじめて手にした寝袋は、外側が青く、内側が赤いものだった。サイドにジッパーが付いている。当然、ふざけているうちにやぶいてしまう奴などがいて、そこから白い綿が見えたのを覚えているので、中には羽毛ではなく、綿が入っていたのだろう。あの頃は暖かさ云々よりも、寝袋のつるつるした感じが好きで、合宿が終わった後、自宅に帰ってきてもたまに押し入れから寝袋を引っ張り出してきては、布団の上に敷いて眠ったりしたものだ。
 その時代から、適切な寝袋さえあれば、ぼくはどこにいてもぐっすり眠れた。それは今に至るまでまったく変わらない。雨風をしのげる小屋やテント、そして寝袋さえあれば、そこが家になる。生きていく上で、こんな便利なアイテムを使わない手はない。




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THE NORTH FACEの「ソーラーフレア」
1968年にバークレーで創業したアウトドア・ブランド、ノースフェイス社において、極端な氷点下でも融解を保つ寝袋として製品化された「ソーラーフレア」。耐久性、防水性、通気性のよいシャドーリトハイベントシェル素材を使用し、-26度まで耐えうることができる。写真はエベレスト登頂中の著者が、標高4700メートルのロブチェ・ベースキャンプ前の空き地で撮影したもの。

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