ぼくの道具 石川直樹

第五回 保湿クリーム

 つい最近まで保湿クリームというものを使ったことがなかった。化粧水とかいうものも同様に使ったことがなかった。だから、そういった顔に塗るものについて、ぼくはよく知らない。顔に塗るもので初めて知ったのは、日焼け止めである。その次に知ったのはリップクリーム。それらを知ったのは、雪山に行くようになったからだ。日焼け止めやリップクリームを塗らないで、かんかん照りの雪山に向かうと、顔が日焼けしてやけど状態になってしまう。だから、ぼくは顔に日焼け止めを塗るようになった。
 20代後半のときだったろうか、資生堂の人に呼ばれてトークイベントをしたとき、話し終わった後の雑談中に、「石川さん、北極とか南極って紫外線が強いんだから、ちゃんとお肌のケアをしないと大変なことになりますよ」と女子社員に言われた。ぼくは「日焼け止めを分厚く塗ってるから大丈夫ですよ」と自信満々に答えたのだが、彼女から、化粧水は?保湿クリームは?とたたみかけられて、困惑した覚えがある。そんなものは使ったことがなかったし使わなくていいと思っていたからだ。
 しかし、最近になって、女子はそういうものを毎日ぺたぺたと塗っていることを知った。もちろんお化粧をするのは知っていたが、毎日朝晩そういう肌のお手入れをマメにしていることについて、ぼくは認識を新たにしたのだ。
 旅をしていると、東京で吸う一年分の砂埃を一日で吸っているような気になることがある。例えば、インドの雑踏やバングラデシュのダウンタウン、あるいはペルーの道路などを歩くだけで、砂や埃まみれになる。アフガニスタンでバスとすれ違うときや、エベレスト街道で荷物を運搬するヤクとすれ違うときも同様だ。濛々と砂が舞うなか、息を止め、薄目で歩く。息をしなければいけないときは必ず鼻で行う。しかしどうあがいても10分程度で、顔が石像みたいになる。ひどいときはパリパリに乾いて、ひび割れのようになってしまう。肌がひび割れるのではなく、顔を覆う砂の層がひび割れるのだ。そのくらい顔に砂が積もるのである。細かい砂が舞って、それを肺に吸い込んだ実感があるときは、帰国してすぐにコンニャクを食べるようにしている。昔、うちの母親が「コンニャクを食べると体の中の砂が出てくるのよ」と言っていたからである。
 とにかく、そういった場所を旅すると肌が乾いていくので、ぼくはいつしか保湿クリームを持参するようになった。特にクリームを必要だと思うのは、ヒマラヤ登山の際のベースキャンプ生活である。ベースキャンプには、蛇口をひねればお湯が出るような設備はない。数日間、あるいは一週間ほどお風呂に入れないのは当たり前である。朝と夕方、シェルパが手渡してくれる熱いおしぼりで顔を拭くと、白いタオルが茶色に変色する。体の他の部分は防寒着に覆われているが、顔面だけは剥き出しなので、汚れるし、乾くのだ。
 今は、知り合いにいただいた、キールズの保湿クリームと馬油(マーユ)を使っている。エベレストのベースキャンプ生活は暇なので、小さなテント内にある、あらゆる文字を読んで時間をつぶしたりする。カメラの説明書やテントに付いている注意書きやカイロの袋に付された説明書きなどである。そのとき、キールズの保湿クリームの入れ物に細かく書いてある英文も読んだ。そこには「このクリームはグリーンランド探検隊でも使われた」的なことが書いてあった。素晴らしいと思った。グリーンランドを探検した探検家たちも保湿クリームが必要だったのだ。やはり、ぼくにとっても保湿クリームは必要であり、このクリームを持ってきてよかったのだ。
 ベースキャンプではおしぼりで顔を拭いた後、クリームをたっぷり塗って、さらなるハードな状況に備える。でも、時々クリームが凍り付いてかき氷のようになってしまうこともある。あれを手で温めるときは、ちょっと寂しい。ぼくはこんなものまで凍る世界にいる。そのことを思い知らされて、ちょっとだけ、寂しいのだ。




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KIEHL'Sの「ULTRA FACIAL CREAM」
1851年、ニューヨークのイーストビレッジにてアボセカリー(調剤薬局)として創業した自然派化粧品ブランド、キールズ。創業以来、ホメオパシー・ハーブ・家庭用医薬品の知識をもとに、スキンケアやヘアケア製品を提供してきた。なかでも天然由来成分を主成分とするこのクリームは、2005年のグリーンランド探検隊が探索中、実際に使用していたほど、高い保湿力と効果が実証されている。

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