説経節 伊藤比呂美 / 絵・字 一ノ関圭

第14回   しんとく丸 その6 乙姫はしんとく丸を抱きしめて...

 下和泉で名の高い、信達(しだち)の大鳥はこれですか。

 山中の三里を、夫恋しやと尋ねたのでありますが、行方はなかなかわかりません。

 それでこんどは紀伊国(きのくに)へ入りまして、川辺市場(かわなべいちば)を尋ねたのでありますが、行方はまだまだわかりません。

 紀の川で船に乗り、向こう岸に渡って、道行く人に聞きました。

「この街道で、稚児育ちの病者を見かけませんでしたか」

 するとその男が言いました。

「おまえの連れか兄弟か、おれは見張りじゃないからな」

 つめたく、むごいことばでありました。乙姫はこれを聞き、思わず涙をこぼしてつぶやいたのでありました。

「なんて言いぐさだろう。知らないから聞いているのだ。教えない人のなんと情けのないことか」

 道をいそいだので、ほどもなく、藤白(ふじしろ)峠に着きまして、とある所に腰を掛け、つらつらと考えました。

「そのむかし、巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣りの折りに、この松のもとで絶景を筆で写しとろうとして、写しかねて筆を捨てた。それでここを筆捨松(ふですてまつ)と呼ぶそうだ。そんなお話も、夫に会えないわたしには、おもしろいと思えない。しんとく丸に会いたい。こんなに探し歩いたのに、行方はわからない。きっと、女房たちに笑われたのを無念に思って、淵か川に身投げをしてしまったのだ。女房たちと一緒になって笑ったとわたしのことを恨んで死んだのだ。ああ、それは違うのに。わたしは夢にも知らないことだったのに。熊野へ行くのはよそう。近木の庄に戻ろう。たとえ骸(むくろ)になっていても、なんとか見つけだして弔ってあげたい」

 乙姫は、いっそもう、自分も道連れになって死んでしまいたいと思ったのでありました。

 藤白からうち戻り、あちこちを探しまわりましたが、行方はやっぱりわかりません。

 父の家に戻って、探しつづけたいと言ったところで、お許しは出ないだろう、それならこのまま上方(かみがた)に行って、そこを探そうと、自分の古里を遠くに見ながら、西をはるかに眺めておりますと、海に大網をおろす音が聞こえました。なにを見ても、なにを聞いても、いちいち物思いにしずむ乙姫でありました。

 夫が恋しいと、あちこちを探しまわったのですが、行方はちっともわかりません。

 住吉神社にお詣りしまして、尋ねたのはどこですか。

 四社明神に、奥の院、反橋(そりはし)の下まで探しまわったのでありますが、さても行方はわかりません。

 阿倍野五十町をはやくも過ぎまして、天王寺に着きました。金堂(こんどう)、講堂、六時堂(ろくじどう)、亀井の水のあたりまで探したのでありますが、行方はやっぱりわかりません。

 乙姫は、石の舞台に上がって考えました。

「この舞台で、稚児の舞を舞ったしんとく丸が恋しい。もう和泉へは戻らない。このままこの蓮池に身を投げよう」

 髪を高く結い上げて、袂(たもと)に小石を拾い入れ、身を投げようと思ったとき、

「待て、はやるな、わたしの心。探し残したお堂がある。引声堂(いんせいどう)に行ってみよう」と引声堂にお詣りして、鰐口を、じゃん! とうち鳴らし、

「どうか夫のしんとく丸にめぐり会わせてくださいませ」と心をこめて祈っておりましたら、堂の後ろから、弱々しい声がしました。

「巡礼ですか、土地の人ですか、おめぐみを」

 乙姫はこれを聞き、縁から下に飛び降りて堂の後ろに回り、蓑と笠を奪い取り、その顔をのぞきこみますと、しんとく丸でありました。

 乙姫はしんとく丸を抱きしめて言いました。

「乙姫でございます。お名前をお名のりください」

 しんとく丸は払いのけて言いました。

「旅の巡礼さん、いじめるのはおよしなさい。盲目杖(もうもくづえ)に咎(とが)はございません。お放しください」

 乙姫は抑えきれず、身もだえしながら泣きじゃくり、泣きじゃくりながら言いました。

「乙姫じゃないものが、あなたみたいな病者に抱きつきますか。お名のりください」

 しんとく丸は、名のるまいとは思いましたが、もはや隠しきれずに話しはじめました。

「乙姫どのでしたか、恥ずかしゅうございます。乳房の母に死なれ、継母の母の呪いにかかって、こんな病者になり果てました。親は慈悲であるはずが、わたしの親は邪慳(じゃけん)でした。それで天王寺に捨てられました。熊野の湯に入るのがよいと聞きまして、熊野の湯に向かう途中で、あなたの屋形と知らずに施行を受けに行き、女房たちに笑われました。面目なさに堪えきれず、飢え死にしようと思いましたが、死に切れぬ命です。ここでめぐり会ってしまったのが、恥ずかしくてなりません。どうかこれでお帰りください」

 乙姫はこれを聞いて言いました。

「お供をしないつもりなら、どうしてここまでまいりましょう」

 そして、しんとくを支えて肩に掛け、町の中に出ていきました。これを見て、心を動かされない者はいなかったのでありました。

 乙姫は母にもらった黄金を米と引きかえて、しんとくに食べさせながら言いました。

「たしかしんとく丸さまは、清水さまの氏子でしたわね。それなら、一緒にお詣りいたしましょう」

 そして夫婦うち連れて、都をさして上っていったのでありました。

 通っていったのはどこですか。

 長柄(ながら)の橋をうち渡り、どこへいくのと聞きますか。

 太田の宿、塵(ちり)かき流す芥川(あくたがわ)、どこへいくのと聞きますか。

 夜はまだ深いのに月は高くに高槻や、どこまでいくのと聞きますか。

 行く先は、山崎の宝寺(たからでら)、関戸の院を伏し拝み、鳥羽に恋塚、秋の山、道をいそぎましたので、ほどもなく、東山清水(きよみず)に着きました。清滝に下りていき、三十三度の水垢離(みずごり)を取りまして、ご本尊さまのおん前にお詣りして、鰐口を、じゃん! とうち鳴らし、

「心から信心いたします、大きな慈悲をお持ちの観世音菩薩さま。しんとく丸は、こちらの氏子でございます。この病をどうぞ治してくださいませ」と心をこめて祈りあげました。そしてその夜はそこにお籠りしたのでありました。

 夜半ばかりのことでした。ご本尊の観世音菩薩さまが揺るぎ出ておいでになりまして、乙姫の枕上にお立ちになりました。

「よく来た、乙姫、昔から今にいたるまで、人に頼まれ、頼りにされてきたおれなのだ。継母の母がやってきて、おれの前に、十八本、釘を打った。都の神社社(やしろ)に、打った釘の数は百三十五本になる。おれを恨むな。明日、ここから下がるときに、一の階に鳥箒(とりぼうき)がある。それを手に取り、しんとく丸をすわらせて、上から下へ、下から上へ、『善哉(ぜんざい)なれ、平癒(へいゆう)あれ』と唱えながら撫でたならば、病はきっと癒えるだろうよ」

 そうお告げがありまして、ご本尊さまは、かき消すように見えなくなりました。

 乙姫はかっぱととび起きて、「ありがたいご夢想をいただいた」と、ご本尊さまのおん前を三度伏し拝み、まかり出ようとしたときに、一の階に鳥箒をみつけました。それをいただいて、おん前から下がって、貧しい、みすぼらしい小屋に行きまして、しんとく丸をすわらせて、上から下へ、下から上へ、「善哉なれ、平癒あれ」と三度うち撫でたときに、百三十五本の釘がはらりと抜けて、もとのしんとく丸となりました。

 乙姫はしんとく丸に抱きつき、しっかりと抱きしめあい、ああ、ほんとにめでたい、めでたいことになりましたと、その喜びにはかぎりがありませんでした。

 夫婦うち連れて、観世音菩薩さまにお詣りし、ふかぶかと三十三度伏し拝みまして、このたびは人目も気にせず、寺の宿坊に、はればれと帰っていきました。

 それはそれ。こちらは河内の国の信吉どのでございます。

 こんなあわれな話はございません。

 人を憎めば、自分を憎む。半分はわが身に返ってくるものでありました。継母の顔かたちには返ってゆかずに、信吉どのに返っていきました。信吉どのの両眼が、とつぜんつぶれて見えなくなりました。これはこれはと驚くばかりでありました。身内の者がちりぢりに去っていきました。その身は貧しくなりまして、河内の国高安にいたたまれなくなりまして、丹波の国へ流れ流れていったのでありました。

 それはそれ。こちらは和泉の国でございます。

 話がここにも伝わってきまして、蔭山長者がこれを聞き、長男の太郎を呼んで言いました。

「おい、太郎よ。しんとく丸は病が治って都にいるそうだ。和泉の国三百町に人をやれ。いそいで迎えにいけ」

 合点承知と、太郎は旅の用意をし、都をさして上っていきました。道をいそぎましたので、ほどもなく、堺の浦でしんとく丸に対面し、これまでの成りゆきにもたいへん満足したのでありました。しんとく丸は馬で、乙姫は網代(あじろ)の輿(こし)に乗って、たくさんのお供を引き連れて、にぎやかに、はなやかに、和泉の国へ向かい、道をいそぎましたので、ほどもなく、近木の庄に着きました。そして蔭山長者は、とうとうしんとく丸に対面したのでありました。

 わきおこる喜びには、かぎりがありませんでした。

 母が乙姫の手を取ってうれし泣きに泣きながら言いました。

「つらい旅でしたね、でもよくがんばりました。昔から、うれしいにも涙、悲しいにも涙と言いますけど、この涙はあなたにまた会えたうれしい涙なんですよ」

 そのときのようすを、何かにたとえようといったって、それは無理な話でございます。

 

 しんとく丸が言いました。

「わたしは、目の見えないときに人の情けをたくさん受けました。だれとわかっていれば、恩が返せますけど、わかりませんから、返せないのです」

 それで、数々の宝を引き出して、阿倍野河原で、七日の間、施行をしたのでありました。このことが丹波の国へも、伝わっていきました。

 ここでなによりあわれなのは、能勢(のせ)の郡(こおり)の信吉どのでありました。

 わが子の施しとはつゆ知らず、妻と三歳になる息子の乙二郎を連れて、能勢の里を立ち出でて、阿倍野河原までやって来て、施行の場にたどり着き、大声をはりあげて、

「疲れはて飢えたものにおめぐみを」と乞うたのでありました。

 蔭山の家来たちがこれを見て、

「河内高安の信吉長者のなれの果てだ」とどっと笑いました。

 信吉はこれを聞き、こんなことなら出て来なければよかった、出て来たばかりに、こんなにつらい、あさましい目に遭ったと、その場から逃げ出そうとしたときに、しんとく丸が座敷から飛び降りて、するすると走り寄り、

「ああ父上、しんとくがまいりました」と父をしっかりと抱きかかえました。そしてあの鳥箒を取り出して両眼におし当て、

「善哉なれ、平癒あれ」と三度撫でたときに、ひしとつぶれた両眼が明きました。

 わきおこる喜びには、かぎりがありませんでした。

 このめでたい場から、継母と弟の乙二郎は、ささ、こちらへと招き入れられ、早くおいとまをさしあげろ、と命令が出されまして、合点承知と家来どもが、二人を庭のお白州に引き出して、首を切って捨てたのでありました。

 その後、しんとく丸は、父とともに河内に帰りまして、屋形を数々建て並べ、母の供養のためには、峰に塔を組み、谷に堂を建て、大きな河には舟を浮かべ、小さい川には橋をかけ、僧たちが大ぜいで供養して、菩提を弔ったのでありました。こんな不思議な話があるのかと、感心せぬものは一人としておりませんでした。

(「しんとく丸」終わり)

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伊藤比呂美

1955年東京都生まれ。詩人。
1978年現代詩手帖賞を受賞。99年『ラニーニャ』で野間文芸新人賞、2006年『河原荒草』で高見順賞、07年『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』で萩原朔太郎賞、08年紫式部賞を受賞。
エッセイ集に『良いおっぱい 悪いおっぱい(完全版)』『閉経記』、古典の現代語訳に『日本ノ霊異(フシギ)ナ話』『読み解き「般若心経」』『たどたどしく声に出して読む歎異抄』、対談集に石牟礼道子との『死を想う』などがある。著作の一方、自分の詩の朗読活動も行っている。

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