第1回

主役になれない女の子 Miss Many Others

 

 女にとって、外見とはいったいなんなのでしょうか。

 

 昔、『ビューティー・コロシアム』というテレビ番組がありました。ときどき特番で放送されることがあるので、ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思います。

 『ビューティー・コロシアム』は、いわゆる変身番組です。世間一般的に「ひどい容貌」の女性が、「キレイになりたい」という望みを叶えるために自ら応募してきて、整形、エステ、ヘアメイク、ファッション、すべてにおいて改造・変身が行われます。

 応募者には、妖怪じみたひどいキャッチコピーがつけられますし、変身前はノーメイクの姿を醜く見せるライティングで撮影されます。こうした応募者を見世物のように扱う悪趣味な演出も気になりますが、私はこの番組で、それ以上に気になる点がふたつあります。

 

 ひとつは、変身前の応募者に、司会者の和田アキ子さんが心のあり方を説くことです。

「あなた、テレビに出るのにそのサンダルにジャージって、本当にキレイになりたいと思ってるの?」

「さっきから話を聞いてると、こちらが何を言っても『でも』と言い返してくる。見た目以前に、心が素直じゃない」

 私はこれらの言葉に、強烈な違和感を感じます。

 なぜ、見た目を改造するのに「キレイになりたい」とどのくらい真剣に思っているかが関係あるのでしょうか。「心が素直」かどうかを試されなければいけないのでしょうか。

 

 この番組を観ていると、その演出の方向に作為的なものを感じます。変身前の応募者が、容姿のことでいかにひどく傷つき、苦しい人生を歩んできたかがことさらに強調され「整形しか救いがない」というストーリーが作られる。さらに応募者本人に「本気で人生を変えたいと思っているのか?」と問いかけ、覚悟のほどを語らせ、そこでやっと「変身に番組が手を貸します」という許可が下りるようになっているのです。「ただ単に見た目がイヤだから変えたい」「ただ外見をキレイにしたい」だけではいけなくて、「人生を、自分の生き方を変えるために見た目を変えたい」という、精神論に近い話になってしまうんです。

この「容姿で苦労していて整形以外に逃げ場がない」「『見た目を変えたい』ではなく『人生を変えたい』と言わなければならない」という二重の関門の背後にあるものはなんなのでしょうか。

 

 この番組では暗に「女は容姿が悪ければ、想像を絶するほどの苦労をする」と言っている。「美しくなって人生を変える」というのは、裏を返せばそういうことでしょう。

 なのに、そのメッセージと同時に別のメッセージが発せられている。「美しくなりたいと思うのは、女性としては当然である」と押し付ける一方で「でも、軽々しい気持ちで整形をして美しくなるべきではない」「非常に苦労して、どん底まで追い込まれた女だけが整形という手段を使って一足飛びに美しくなってもよい」「ただラクをするためだけ、ただ見た目を美しくしたいというだけの気持ちで、整形をすべきではない」「それ相応の苦労をした人間だけが、その苦しみから逃れるためにのみ、整形が許される」......

 そしてとどめに「心が素直じゃないと美しくなる資格はない」のダメ押しです。すさまじいと思いませんか。

 

 「『キレイになりたい』と思うのが、女の自然で素直な感情」だと教え込まれる一方で、「ただの虚栄心で『キレイになりたい』と思うのは感心できない」「切羽詰まった人間でなければ整形はすべきではない」という、別のメッセージを同時に刷り込まれる。なぜこんな、上限の決められた「キレイ」を「求めるのが普通だろ」と上から下から急き立てられるようにして「求めさせられ」なければならないのでしょうか。

 この「美に対する意識」は、なんなのでしょう。ただ単に「美しくなりたい」だけの美の追求は「悪いもの」「虚栄」で、かといって美の追求をしないのは「女として自然ではない」「間違ってる」「努力が足りない人」。強烈なダブルバインドです。

 この上限も下限も決められた状況で、心から素直に、身の程をわきまえて、欲望で発狂しない程度に、そしてやる気をすべてなくしてしまわない程度に「キレイになりたい」なんて思える女が、いったいどれだけいるのでしょうか。

 

 こんな息苦しい、飼いならされた「キレイになりたい」という「欲望」が、本当の女の「欲望」だとは、私は思いません。こんなふうに、誰が望んでいるのかすら定かではないもののために姿形を変えるのが、女の本分だとも思いたくない。

こんな見えない上限や下限を、女の欲望を急き立て、制限する壁のような何かを、マシンガンでぶっ壊せたら、爽快だろうと思いませんか。

 私は思います。日夜想像します。ひとの視線や、世間の常識や、善悪の基準すら関係のない自由な世界で、どんなものにもとらわれず、好きな装いをし、気持ち良く深い呼吸をしている自分を。

そんな自分は、どんなに美しいだろうかと思います。

 

 『ビューティー・コロシアム』で気になるもうひとつの点は、その変身が、その場限りのものである点です。

 もちろん、整形はその場限りのものではありません。けれど、プロのヘアメイクがついて、スタイリストがついて、白飛びするほど強力なライトをあてて、テレビに映る瞬間だけキレイにしてもらったからといって、そんな借り物で本当に人生が変わるでしょうか。

 自分がどんな美を求めているのか、どういうものが好きで、どういうものを身につけたいのかも知らずに、漠然と「今よりキレイになりたい」と思っている女性が、いきなり「漠然と望んでいるキレイな姿」を自己演出できると思いますか?

 

 「美しく装う」ことに必要なのは、知恵と訓練です。服のセンスについて考えたこともなく、どのような服が自分に似合うか試したこともなく、メイクを練習したことも、髪のブローをしたこともない人が、いきなり明日からそれをやれるかというと、絶対にやれません。自力でやれないレベルの変身をさせてもらうのは、確かに気持ちがいいでしょう。でも、一時的に最大瞬間風速の「キレイ」を演出されても、それからの毎日をそのレベルで過ごすことは不可能に近いです。

 この番組を作っている人は、女が最低限「不潔でなく清潔だ」「感じが良い」「常識的な、場に合った服装だ」と、要するに「まともな人間だ」と周りから思われるために、どれほどの労力をかけ、どれほどの努力をしているか、まさかとは思いますが、もしかして知らないのではないでしょうか。

 「美しくなるための手助けをする」はずの番組なのに、基本的なことを教えずに、ただその場限りの変身をさせて、なんの知識も技術も身につけさせずに、応募者をもとの現実に放り出す......。私には、この番組がそんなふうに見えて仕方ありません。

 

「女は美しくあるべきだ」という呪いのような圧力を、私もまたこの社会に生きている以上、受けながら暮らしています。世間から「美しい」と認知されるために、どのような努力が必要か、どのような方向の「美しさ」を求めればよいのかも、少しは知っています。半径10メートルぐらいの世界で「美しくあるべく努力をしている、見苦しくない人」としての評価を受けたいならどうすればよいか、私はたぶん知っています。

amemiya_illust01.jpg 美しくなりたくないとは思いません。けれど、自分の中にある「美しくなりたい」という気持ちは、半径10メートルぐらいの世界で「美しい」と認知されるようなせせこましいものではなく、もっと野蛮でめちゃくちゃな、方向性など定まらないような、そういうものであるように感じます。

 

 この混乱の中で、幾重にも重なる圧力や常識の中で、女は、いえ私は、いったいどのような「美しさ」を求め、どのような「見た目」を獲得してゆけばいいのでしょうか。

 「美しくなりたい」と思う気持ちは、私の中では「自由になりたい」と、同義です。社会の圧力から、常識から、偏見から、自分の劣等感から、思い込みから、自由になりたい。いつでもどこでも、これが自分自身だと、全身でそう言いたい。「美しくなりたい」とは、私にとってはそういう気持ちです。

 

著者略歴

雨宮まみ(あまみや・まみ)

ライター。エロ本の編集者を経てフリーのライターに。その「 ちょっと普通じゃない曲がりくねった女子道 」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて 』(ポット出版)を昨年上梓。
主に恋愛や女であることに素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。