第1回 「なぜいま、キリスト教を問題にするのか。(1)」
これからキリスト教神学に関する連載を始めます。この連載の目的は、キリスト教について知ることです。ただし、キリスト教を信仰することを勧める伝道を目的とする内容ではありません。キリスト教について、国際規準での常識について、知的に知ることがこの連載の目的です。
ところで、キリスト教は、救済を目的とする宗教です。救済は、人間にとって、主体的な問題です。キリスト教の場合、神から人間に対する呼びかけに人間がどう答えるかが、問題の核心になります。それだから、キリスト教について、純粋に客観的なアプローチはありません。主体的なコミットメント(参与)を必要とする事柄に関して、純粋客観的な記述をするということは、カテゴリー(範疇)が異なるので不可能なのです。純粋客観的にキリスト教という現象を観察しても、キリスト教を知ることはできません。
神学の定義について、現在、英語圏で標準的なプロテスタント神学入門に用いられているアリスター・E.マクグラス(Alister E. McGrath、1953年~)『キリスト教神学入門』には、こう記されています。
〈「神学(theology)」という言葉は、すぐに二つのギリシア語に分けられる。つまり、theos(神)とlogos(言葉)である。「神学」は、従って、神についての議論であって、それは「生物学(biology)」が生命(bios)についての議論であるのと、ほとんど変わらない。もし、唯一の神しかいないのであれば、また、その神がたまたま「キリスト者の神」(二世紀の思想家テルトゥリアヌスの言葉を借りれば)であるならば、神学の本性と範囲は比較的よく定義されよう。つまり、神学はキリスト者が礼拝し、崇めている神についての考察である。〉(アリスター・E・マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、195頁)
神について、言葉で表現するというのが神学の特徴です。ここでただちに「それでは神とは何ですか。とりあえずでもよいので、定義してください」という質問が出てくると思います。この質問に対して答えることはできません。なぜならば、人間の限られた知恵で定義できるような神は、キリスト教徒が信じる神ではないからです。この連載全体を通じて、読者の皆さまとともに神について、いっしょに考えていきたいと思います。より正確に言うと、神について、われわれ人間が考えていくというのは、神学的に正しいアプローチではありません。神が自身についてどう語るかについて、虚心坦懐に耳を傾けていくことが神学的に正しいアプローチなのです。
ところで、ギリシア語の神学(テオロギア、teologia)という言葉は、キリスト教が出現する以前からありました。テオロギアは、神々について語られる言葉という意味で、今日のわれわれの用語では神話に近いです。神話をギリシア語では、ミトス(mythos)と言いますが、これはそもそも「黙する」(ミエイン、myein)という動詞に由来します。語ることができず、沈黙しなければならない事柄について語るのが神学という学問の特徴なのです。
もっとも神学の場合、どこまでを標準的な知識と定めるかがとても難しいのです。それだから、神学入門の教科書を書くことは至難の業なのです。そもそもキリスト教という言葉が意味する内容自体が、ひじょうに曖昧なのです。この点について、英国の傑出した社会人類学者アーネスト・ゲルナー(Ernest Gellner,1925~1995年)の以下の指摘がとても重要です。
〈観念や信条体系の中には、確かに非常に重要な結果をもたらすものがある(優れた観念が、最も大きな影響力を持つとは限らない。観念の中には、優れたものも劣ったものもあり、また、大きな影響力を持つものもまったく影響力を持たないものもある。そして、この二組の対の間には、体系的な関係は存在しない)。例えば、キリスト教として、またマルクス主義として知られている信条体系は、どちらも偶然的なものである。両者はともに、様々な主題の複合体として構成されている。そして、その主題の一つ一つは、おそらく、それぞれが生じた状況に固有のものであると言ってよい。しかし、それらは、名称と歴史的実在性と連続性とを与えられた特別な結合体として、一連の思想家や説教師たちによってある種の統一体へと作り上げられたのである。〉(アーネスト・ゲルナー[加藤節監訳]『民族とナショナリズム』岩波書店、2000年、205頁)
キリスト教神学は人間の側からは、言説として現れます。この言説は、他の宗教や思想と同じ権利を持ちます。キリスト教徒は、キリスト教が絶対に正しいのだと信じていることが多いのですが、それは同じ信仰を持つ人の間でしか通用しません。それですから、キリスト教を単なる現象として見た場合、それはさまざまなグループが、主題をかなり恣意的に構成した言説が並立しているに過ぎず、キリスト教全体に通底する論理を導き出すことは不可能です。こういう視座から、キリスト教について論じたのが、橋爪大三郎/大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年)です。現代の欧米文明に埋め込まれたキリスト教の伝統を知るために、この本はとても優れています。