第1回

待機児童の爆心地へわざわざダイブ......!?

「やっぱ東京に住みたいんやけど......」

 2016年春のある日のこと。
 前々から思っていた希望を、勇気を持って妻に伝えてみた。
 すると妻から真っ先に返ってきた答えは、意外なものだった。

「えー! 保育園どないすんのよ? 簡単に入れないんやよ!」

 正直、「突っ込み入れるとこ、そこ?」と思ったが、じわじわとその返答が重くのしかかってきた。冷静に考えれば、いま僕も妻も両方働くことができているのは、娘を保育園に預けられているからだ。こうして、これまでろくに考えたこともなかった「待機児童」という社会問題が、突如として「自分ごと」になった。

■まずは自己&家族紹介
 さて、わたくしアサダワタルは、「アートと社会活動」をテーマに、全国津々浦々でアートイベントの企画・演出、書籍や各種メディアで執筆活動を続けてきたフリーランスのクリエイターである。あわせて、いくつかの大学で研究員や講師として働く非常勤教員という立場もある。
 生まれは大阪府堺市。現在38歳。2009年、新潟県妙高市出身の妻と結婚。2011年まで32年間大阪に住み、2012年に滋賀県大津市に移住。2013年11月に愛娘 M子を授かる。
 2010年頃から東京での仕事が増え、関西をメインにしつつも、これまで浅草橋、新橋、初台と友人のシェアハウスを間借りして、東京に第二住所を持ち東西移動生活。いわゆるノマドワーカー的な働き方を8年くらい続けてきた。
 妻は、文化施設の事務職や自治体が主催するアートイベントのスタッフとして働いてきたが、妊娠・出産後は1年半子育てに専念。2015年4月からM子を大津市の保育園(1歳児クラスから)に預け、県内の福祉系の法人で事務職としてパート勤務。そして、2017年の現在の状況は......、このあと書いていく。

「東京に住みたいかも」と思ったのは、2015年くらいから。
 仕事で東京に滞在する時間が飛躍的に増え、そこでの素敵な出会いや数年先の展開を考えれば、「関西にいるより東京にいた方が、少なくとも当面は動きやすそうだな」と感じたからだ。まぁ、大雑把に言ってもアートや音楽などのクリエイティブ系の仕事や、執筆業などメディアと絡む仕事は、もともと関西より東京の方が圧倒的に多いし、その状況はネット社会が加速してもやはり事実として残り続けている。
 でも僕の場合は、数年前まで関西の特定のエリアに特化したプロジェクトに携わってきたから、関西にいてもなんとかフリーで食えてはきた。ずっと関西で仕事をしてきたからそれなりに仲間もいるし、仕事を融通し合う関係性もあって居心地は確かにいい。
 でも、仕事の内容は徐々に変わってきているし、何よりもなんだかこの状況にモヤモヤとした閉塞感をすごく感じるようになったというか......。居心地がいいゆえに逆に言えばぬるま湯に浸かり続けている感じというか......。

 まぁ、こんな物言いをすれば元も子もないけど、いま置かれている環境に「飽きてきた」っていうのが正直な気持ちなのだ。喩えるならば今年、TM NETWORKが『GET WILD』(1987)だけ33曲収録したアルバムを突然リリースして話題になっていたけど、あの曲のサビの歌詞にある「この街でやさしさに甘えていたくはない」という、あの感じである。そうこう考えているうちに、自分の気持ちにいよいよウソがつけなくなってしまい、妻にそのことを伝えるタイミングを探っていたのだ。そして、「ちょっと東京に住んでみない?」と、38歳の子持ちの中年男性の発言としては軽すぎる口調をあえて採用しつつ、ニコニコと妻に提案してみて撃沈したのが、冒頭のやりとりだった。

 妻は、心底戸惑った様子だった。そりゃそうだ。妻にとったらただでさえまったく縁のない東京。それに、(サラリーマンが会社から転勤命令をうけるパターンでもなく)フリーランサーの夫が「自己都合」で言っているような話だ。いい感じで続けられているパートも辞めないといけない。それに何より妻が訴えてきたのが「M子を保育園に入れられないならイヤ!」ということだった。

 娘を保育園に入れることができれば、妻に新しい仕事に就いてもらうことも可能だ。幸いこの数年、東京で頻繁に働いてきたから、妻の能力(もともと僕と一緒のアート畑)を買ってくれるようなネットワークはそれなりにあるし、妻の仕事が先に決まれば、いくら待機児童が多い東京だって夫婦共働きなんだし、ちゃんと必要な手続きをすればどこか一つや二つくらい、入れてくれるだろう......。なーーーーーーんて、余裕ブッコいていた自分がもう心底恥ずかしいくらい、東京の待機児童問題は破滅的に凄まじいものだった。

■保活の第一歩
 ここからいわゆる「保活」(=子どもを保育園に入れるために保護者が行う活動)が始まった。2016年の秋頃からリサーチ開始。そもそも一体われわれ世帯にどんな条件が揃っていれば、東京でM子を保育園に入れられるのだろうか......? まず、滋賀県大津市でM子を保育園に入れられている足下の状況(当時)から確認することにした。

 M子は2015年4月に1歳児クラスから入園している。保育園に入れてもらうには、住んでいる自治体の「保育幼稚園課」(課名は自治体によってバラバラ)の窓口で「保育所利用申し込みの手引き」を入手して、「施設型給付費・地域型保育給付費等支給認定申請書」なる長い名前の書類(次回以降、ちょくちょく制度についても触れていくが、これは2015年度からスタートした「子ども・子育て支援新制度」にもとづく書類)と「保育所等利用希望申込書」、その他に母子手帳やら、父母が実際にどれくらい働いていて、保育をどれだけ必要としているかを証明する書類などを提出しなければならない......、らしい。

 うーん、今思えば当時この面倒な手続きをすべて妻がやってくれていたんだな。ほんとに頭が下がる思い......。要は役所の方で「あんたがたファミリーは、こうこうこれくらい働いて、これくらい大変(保育に欠ける)だから、星三つです!」みたいに保育が必要なレベルを認定するわけだ。
 この認定の大元になる点数のことを「基準指数」と言って、そこで大体の就労状況とか、もちろん就労以外にも病気だったり障害だったりもあるから、そういった家庭の事情を鑑みて、点数が割りふられていく。それに加えて「調整指数」というのがあって。これは、例えば「シングルマザーです」(+何点)とか、「兄弟がいて既に保育園に入っている」(+何点)とか、「両親(子からすればじいじとばあば)が近くに住んでいる」(-何点)とかの状況も乗っかって、総合的に認定される流れだ。

 はい。そこで当時の申し込み〆切であった、2014年12月時点のわが家の勤務状況は、父(僕)は自宅内労働、母(妻)は就職内定。利用指数でアップすることも特になく、むしろ自営業者はなぜかマイナス1点!(この差別的な認定についてはネチネチ突っ込みたい)。
 で、大雑把に言って、多くの自治体で「夫婦共々フルタイムで、自営じゃなく、会社に雇用されて外で働いている世帯」っていうのが最強ランクなわけで。それで言うと、我が家は相当に低いランクだったんだな。でも、第三希望まで書類に書き込んで提出したら、なんと第一希望の園に決まってしまった。そして、当時の僕はそのことを「ふーん。入れたね」くらいにしか思ってなかったけど、これは東京を含む全国の都市部(政令指定都市や中核市。ちなみに大津市は中核市)では、ありえないくらい「ラッキー」なことだったのだ。

 たまたまM子が保育園に入る2015年は新設園のオープンが多くて、僕らもその新設園のひとつが近所だったこともあり、そこを第一希望にしたら難なく通ってしまったのだけど(新設園は前評判がないので、あえて避ける人たちもいて、実は既存の人気園などに比べたら入りやすいとされている)、2017年の今では、同じ大津市でも状況は変わって、おそらく当時の僕らの点数では、待機児童になる可能性は大いにあるだろう。

 そんなことを調べていくうちに、(当然これも保育園を探している親たちには常識中の常識ですが)0歳~2歳時は競争倍率が高い、とりわけ1歳時は育休明けで申請する人がどっと増えるし、そもそも0歳から繰り上がっていく子で定員の多くが埋まっているし、逆に3歳以降だったら幼稚園という選択肢も出てくるから比較的入りやすい(もちろんそうとも言い切れないけど)......、といった事情もだんだんとわかってくるわけで。

 2017年から東京に転居することを想定すれば、M子は3歳児。そして住みたいエリアの保育園空きリストをネットでざざっと調べてみるだけでも、それなりに空きがあるではないか!(これも今思えば、空きがある園は園庭が狭すぎるとか、いろいろ問題はあったが...)ましてや4歳児となるとなおさら。
 実際、妻とこの「東京移住計画」を具体的に話し始めたのは、もう2016年の秋だったから、2017年4月の入園は厳しいかなと思い、まぁ2017年の秋頃に引っ越しして、3歳児で途中入園させるか、しばらくは家で面倒をみながら2018年4月から4歳児で入れるか、などとプランを立てていたのだ。妻も、「まぁ確かにそれやったら求職中でも入れるかもしれないねー」などと、多少はポジティブに話に乗ってくれていた。しかし......。

■思わぬ展開! 厳しい現実!
 それから少し経ち、東京のいくつかのエリアの保育幼稚園課に問い合わせをし始めていた2017年の春先、驚くべき事態が。なんと、第二子妊娠、である。実はずっと夫婦共々、いろいろ問題があって不妊モードだったので、すっかり二人目は諦めていて、というか諦めていたからこそ「東京行き」を決意できたのだが、なんとまぁありがたいことに......。

 でも、もう僕は仕事仲間や取引先、SNSなどを通じて「来年から東京を主な拠点とします。よろしくねー」と宣言していた手前、今さら「子どももうひとりできたからやめます」とは言えず。しかも、実際に東京の仕事が忙しく、滋賀の家を空けることも多くなったので、どっちみちもう1人できたときに、家族が一緒に過ごす時間をできるだけ確保できないと、それこそ家庭崩壊するんじゃないかという不安もあった。
 新潟の妻の実家の近くに住んで、僕が東京と新潟を行ったり来たりする案なども浮上したが、妻からは「それをやってしまうと、あんた本当に家に帰ってこなくなりそうだからその案はナシ。第一、雪下ろし大変やから!!」と釘をさされ......。もう半分ヤケになって妻に「じゃあもう、えいやで東京飛び込もか。まぁなんとかなるで!」と言ってしまったのだ。

 こうして時は経ち、2017年10月現在の状況はこんな感じ。
 2017年9月に家族で東京都小金井市に移住(なぜ小金井にしたのかの理由はのちに書きます)。妻は、滋賀の職場を離れ、この10月末に生まれてくる予定のN美(女の子です)の子育てにしばらくは専念しようと、まずは出産のため長女M子と新潟妙高に里帰り。
 M子は大津の保育園を退園し、現在は妙高の保育園に一時保育の枠で通園している。出産を終え、東京での家族生活が本格的に始まるのは来年2018年1月から。まず、M子は保育園ではなく(そもそも妻が働いてないから)幼稚園に年少(3歳児)クラスから途中入園させる方向で今まさに見学中。

 そして再来年2019年4月以降のもくろみは......、「妻:再就職/M子:そのときはもう幼稚園年長さんね(預かり保育も使うわよ)/N美:1歳児クラスで保育園へ!」である。しかし、もちろん、N美を保育園に入れられる可能性は......僕の世間的にはマイノリティな働き方(自営業兼大学非常勤教員)で、かつ妻がパートタイマーであれば、相変わらずかなり低い。さぁこの厳しい現実を、どう考えればいいだろう。

改めて、「ホカツと家族」
 今年に入って半年近く、かなり保活をした。一言で東京と言ってもどこの街(自治体)に転居するかによって、待機児童の状況や指数の算定の仕方がかなり異なる。
 このリサーチのプロセスで見えてきた問題は次回以降伝えていきたいが、ざくっとした結論から言えば、我が家の働き方や第二子出産も控えている現在の状況では「真っ向からの保活はムリ!」だと諦めざるを得なかった。

 しかし、ただただ諦めるだけでは、気持ちが収まらなかった。そこには待機児童という問題の底知れぬ理不尽さに対する憤りももちろんあるが、それ以上に、この保活を入り口にして、僕はもっと「そもそも」のことを考えるようになったのだ。それは、「私たち家族は、子育てを通じてどういう生活を営んでいきたいのだろう」という、しごく根本的な問いだ。

 発端は僕のわがままな「東京行きキボンヌ発言」にある。しかし、このことが善し悪しを超えて、家族というユニットとしてどういう働き方を、どういう暮らし方を、そしてどういう育ち方(子どもが育つだけなく、子どもと一緒に悩みながら大人も)をしていくべきかという議論や、娘たちにとって大切な「保育」や「教育」ってそもそもどんなもので、その子育てにおける理想が見つかるとすれば、その理想と僕らが日々汗水垂らして携わっている「仕事」という現実とはどのように折り合ったり、融合し合ったり、高め合ったりすべきなのか。また、保活のしやすさだけで転居先を選ぶのもおかしいし、住む場所を自分で選べない子どもにとってそもそも「地域」とはどういった存在なのか......、といった諸々の議論を実に活発にするようになったのだ。

 そんななかで、この数年、仕事で頻繁に通っていた東京都小金井市との出会いがあった。僕はこの街で市民の方々とともにアート活動を推進していくディレクタ―をやっているのだけれど、そこでご一緒している子育て真っ最中のお母さん、お父さんたちとの出会いは自分のなかに思わぬ好奇心を芽生えさせてくれた。
 それは、格好良く一言で言えば、「地域で子どもと創造的に楽しく暮らしていく」というテーマを、僕に与えてくれたのだ。これまで仕事柄、行ったことがない都道府県はないくらい各地を転々としてきたが、そのなかでも小金井ははじめて「家族でここに住みたい」と思える街だった。

 しかし......。例に漏れずというか、より一層というか......、小金井は東京都のなかでも待機児童問題がとりわけひどい街としても知られていたのだ。移住したかったが、正直迷った。他の街に住むことも本格的に検討したし、いろいろな街の保育園課の窓口に問い合わせたり、保育園の見学にも行ったが、やはりどこか腑に落ちなかった。
 そうこう考えあぐねていた際に、これまでの僕のこういった保活の状況をなんとなく知ってくれていた、小金井で一緒に仕事をしているNPOの事務局長Mさんから、「うちの事務所をシェアしない? 保育園のことなら相談乗るし、いろんな可能性探ってみようよ」と、突然一通のメールをもらったのだ。
 また、仲良くなったお母さんやお父さんたちも親身になって子育てに関する情報を教えてくれた。長年、待機児童問題がひどいが、その代わりに(それゆえに)、子育てに関する市民活動がとても盛んで、そういったネットワークの存在にも励まされた。そして家族会議を開き、小金井に引っ越すことに決めたのだ。


 さて、初回なのでいろいろこれまでの経緯をまくし立てましたが、この連載では、僕自身の身勝手な東京移住計画から始まり、家族みんなで「保活」に苦しむなかで考えてきた、「子育てを通じて、家族自体の有りよう(ライフスタイル、働き方、地域との関わり......)が変化していく」ことを実体験からレポートしていこうと思う。そして、その活動から改めて気になった友人・知人たちのユニークで多様な子育て・家族実践にも触れていく。

 保活は大切だし、そもそも働くことと子育てをすることの両立という、実に普通の願いが叶わない現在の日本の状況は完全におかしいし、それはこういった議論やさまざまな市民活動やロビイングを通じて、変えていかなくてはならないと思う。
 しかし一方で、保活があまりにも厳しくドロップアウトしそうなとき、もうちょっと広く「他の有りよう」や「別のやり方」にも目を向けていきたいな、とも思う。そうでないと、とても息苦しい。

 そのとき、僕らは保育園の悲惨な状況に文句を言うだけでなく、場合によっては自らの働き方を変えたり、地域との関係を変えたり、子どもとの接し方を変えたり、24時間の暮らし方を編み直さないといけなくなるかもしれない。そういう広い意味で、僕はこの連載において「ホカツ」という片仮名表記をタイトルにし、そこから家族がしっちゃかめっちゃかに、しかし、よりたくましく、ときにワル知恵を絞って変容していく様子を伝えていきたいと思う。「どんな状況、どんな場所でも親になる!」という決意のもと、次回以降乞うご期待!