第9回 「神論(1) 神の存在についてどのように語るか。(1)」
キリスト教は、一神教に属します。ただし、ユダヤ教やイスラーム(イスラム教)のような唯一神教ではありません。ただ一人の神だけを信じるという形態をキリスト教はとりません。それに対応して、キリスト教神学には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神によって表される三一論(三位一体論)という分野があります。三一論は、神論の枠内で議論されるのが通例です。
さらに、神論の枠からは外れますが、キリスト論においても、唯一神教とはまったく異なったアプローチがとられます。イエス・キリストは、真の神であり、真の人であるという神人としての特別の地位を与えられています。この点について、神学的に追究するのがキリスト論です。神学においては、キリスト論が最も重要な内容になります。それは、キリスト教では人間の救済はイエス・キリストに従うことによってのみ可能であると考えるからです。論議の展開として三一論が、キリスト論に先行します。
いずれにせよ、三一論とキリスト論にキリスト教神学の独自の性格が表れています。しかし、このキリスト教神学の核心となる二つの事柄について、理性を規準にする近代的な学術的手法によっては解明できません。キリスト教神学に内在する独自の論理(合理性を規準にするのとは別の論理)を体得しなくては、三一論、キリスト論はさっぱり理解できないのです。本連載では、キリスト教神学に特有な論理に読者が徐々に慣れてもらえるように細心の注意を払いながら記述を進めていくことにします。
このキリスト教神学に独自の論理は、質問の仕方で明らかになります。それは、どういう質問をするかによって、答えの範囲が限定されるからです。そもそもキリスト教神学において、「神は存在するか」という問いかけ自体が成立しません。「神は存在するか」という問題設定は、哲学的なアプローチです。哲学的方法によって神をとらえることはできないというのが神学の基本的立場です。それだから「神は存在するか」という問いかけではなく、神の啓示に虚心坦懐に耳を傾けることが神論の中心課題になります。もっとも神学においても、哲学の役割に関しては、さまざまな見解があります。
カトリシズムにおいては、神学と哲学を整合的に解釈しようとする傾向が強いです。これに対して、宗教改革時のプロテスタンティズム(古プロテスタンティズム)は、濃淡の違いはあっても、哲学に対しては否定的です。プロテスタント神学が、哲学を内部に取り入れようとするのは、啓蒙主義を克服した自由主義的なプロテスタント神学の特徴です。それに対して、カール・バルトは、再び神学から哲学を切り離すという宗教改革の神学に回帰しました。現代神学は、基本的にカール・バルトの切り開いた地平の上で展開されています。従って、現代プロテスタント神学は、哲学によって、神学が究極的に追究する事柄には到達できないという共通理解の上で展開されているのです。
神学には、独自の方法論があります。それは、「神は自らを与える。その現実は、神の言葉によって明らかにされる」という、自己言及的な方法論です。別の表現をするならば、神を、観照によってとらえることはできません。観照は、ギリシャにおいて生まれた哲学の基本的な方法です。繰り返しますが、いかなる場合においても(神学を哲学的に基礎づけようとする神学者の場合においてすらも)、哲学の方法を神学にそのまま適用することはできないのです。
神学的思考の特質をカール・バルトの『教会教義学』(Karl Barth, KD II/1. S.342)に則して、考えてみましょう。かなりわかりにくいテキストですが付き合ってください。日本語への翻訳は正確で、しっかりしています。バルトのテキスト自体が、日常的な言語とも、哲学論文とも異なった言葉と文体によって記されているので、わかりにくいのです。逆に言うならば、バルトの『教会教義学』を自力で読み解くことができるようになれば、それ以外の神学書も理解できるようになるということです。それでは、バルトの神に関する基本規定について見てみましょう。
〈神の自由は神ご自身の自由である。換言すれば、存在する自由、ただ単に神と異なる実在のように存在するというのではなく、むしろその実在に対して、その実在の中で、行動する創造主、和解主、救済主として、したがってそのような実在の主として、しかしまたただ単にそのような実在の存在と異なる神の存在の相違性の中で存在するだけでなく、ご自身の中で次のような方――(事実神がなし給うように)この実在との交わりを、その実在に相対しての全くの相違性の中で、持ち、保持し給う方――である自由、である。
神の啓示の自己証言によれば、神は神とは異なる実在の内部で神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う。よく注意せよ。それは神の現実存在を、したがってこの実在全体とは異なる存在者の存在を、〔自ら証明する自由〕である。しかしそれはあくまで神の現実存在を、である。すなわち、神が〔人間の思惟の中で〕考えられることから独立した神の存在、人間の思惟〔によって考えられること〕に先行し、その思惟をまず基礎づけている、徹頭徹尾対象的な神の存在を、である。また神とは異なる実在の内部での神のこの現実存在を、である。それであるから神のこの現実存在が、この実在の中で、それに人間も属しているこの〔神とは異なる〕実在の中で、またこの実在と異なるその全くの相違性の中で、人間によって認識されることができ、また神の自己証明が人間によって認識され、承認されることができ、人間の認識行為の枠内で繰り返されることができるという仕方においてである。それらすべては明らかに、神の啓示が起こり、信仰を造り出し、見出す間に、起こるのである。したがってそれらすべては起こることができるのであり、したがってそれらすべてに対して神は自由を持ち給う。神はその啓示の中でご自身でことを始める自由を確証し、実証し給う。現にあるところの方としてまことにご自身でことを始める自由――換言すれば、その本質から何かを引き去ることなしに、神がここで自らことを始める時に、神が現にある〔ところの〕ものを越えてそれ以上のものであるかもしれない別のものを秘密にしておくことなしに、ご自身でことを始める自由――を確証し、実証し給う。その自由はご自身でことを始める自由、すなわち、ご自身の現実存在そのものによって、あるいはむしろご自身の現実存在そのものの中で(それ以外のいかなる仕方によってでもなく)、神の現実存在を基礎づける自由である。その際、ご自身でことを始められる際の始め方からして、いかなる思惟もこの始まりの聞き逃すことのできない、反駁することのできない、忘れることのできない出来事を通り過ごして考えることはできないのであり、しかもここで、(神がその実在と異なってい給うように)神と異なっている実在のただ中において、したがってここで――神の現実存在〔などというもの〕は両方の側から見て不可能と見えなければならないここで――そのことは起こるのである。〔そのようにここでそのことは起こるにもかかわらず〕神はそれを証明する自由をその啓示の中で確証し、実証し給う。そのことが、イスラエルの選びと支配の中であらかじめ示されたイエス・キリストにおける神の受肉の自由、神の言葉の自由、神の霊の自由、神の恵みの自由である。その自由は全線にわたって、神がなし給う存在証明――すべての、人間による神の存在証明は(もしもその人間による証明が確かに神の現実存在を証明しようと欲しており、もしもそれが全く別な何か、換言すれば、最後的にはまさに人間の現実存在を、人間の限界の意識からして証明しようとしているのでないならば、ただそれの後に従って写しつつ(nachbuchstabieren)なされることができるだけである神がなし給う存在証明――の自由である。〉(カール・バルト[吉永正義訳]『教会教義学 神論I/2 神の現実〈上〉』新教出版社、1979年、93~94頁)
バルトは、自由の中で神を位置づけています。そして、神はその存在の中で、自由に行動する創造主、和解主、救済主であると、バルトは強調します。このことを人間の側から見ると、どういうことになるのでしょうか、神が自由な存在であるということは、人間の側から見るならば、神はきまぐれな存在ということになります。たとえば、天地創造についても、神は気まぐれに、言い換えるならば、趣味でこの世界と人間を創ったことになります。