第13回 「神論(2) 生成する神(1)」
これまで紹介してきた三一論に関する議論は、すべて西側神学の伝統的な解釈を前提としたものです。私が神学生だった1980年代には、このようなアプローチで基本的に支障はありませんでした。しかし、それから30年経った現時点で、東方正教会の三一論を無視することは、知的に不誠実です。1988年、ロシアへのキリスト教宣教千年祭をきっかけに、当時のソ連政府(ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長)が宗教政策を緩和しました。それにともない、ロシア正教会での神学研究が活発になりました。これまで禁止されていた、1917年のロシア社会主義革命後、西側に追放された、もしくは亡命した神学者たちの研究書も、ソ連で読めるようになったのです。1991年12月にソ連が崩壊すると、宗教に対する規制は一切撤廃され、ロシア正教は事実上の国教としての地位を得ました。このような政治変動は、神学にも影響を与えます。
カトリック教会、プロテスタント教会などの西側教会とロシア正教会、ウクライナ正教会、ギリシア正教会などの東方正教会の間では、三一理解について、大きな差異があります。このテーマは神学的に相当難しく、かつ神学者の間で標準的見解が収斂していません。それですから、本連載のような入門的性質の記述には馴染みません。ただし、21世紀に生きている神学について考える場合には、極めて重要なテーマなので、論点だけは提示しておきます。
大雑把に言って、西方教会、つまりカトリック教会、プロテスタント教会の伝統においては、三一のうち、一を重視する傾向が強いです。それが行きすぎると、イスラームの唯一神理解に近くなります。特にカルバン派の神観はイスラームに近くなることがあります。カルバンがジュネーブを拠点国家としてプロテスタンティズムを全世界に拡大しようと試みたことは、21世紀のイスラーム原理主義過激派がテロを含むあらゆる方法を用いて、世界を単一のシャリーア(イスラーム法)の下で支配される単一のカリフ帝国を建設しようとするのに似ています。
これに対して、東方教会、つまりギリシア正教会、ロシア正教会、ウクライナ正教会、ギリシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などは、三一の三を重視する傾向が強いのです。それから、英国国教会(日本では聖公会)は、西方教会の伝統に属しますが、三を重視する傾向にあります。これは、英国国教会の神学が、中世のリアリズム(実念論)の影響を強く受けて形成されたためです。
プロテスタント神学においても、ユルゲン・モルトマンが、三を重視する方向への傾斜を示しています。ドイツのプロテスタント神学者ホルスト・ペールマンは、モルトマンの複雑な議論を手際よく整理し、こう述べています。
〈手短かにモルトマンの十字架中心の三位一体の概念を見てみよう。そこでは三位一体は、徹底的に歴史化される。モルトマンにとって十字架の死は、「神における自己分裂」そのものである。「十字架の死の分裂」は「神ご自身を貫いているのであって、神人たるキリストの人格を貫いているのではない」、「神自らが、神によって見捨てられ、神自らが神を追い出す」(ゴルヴィツァー)。「古代の無感動(アパティッシュ)な神学」に代わって、「熱情的(パテティッシュ)な神学」が現われなくてはならない。「ここにおいてひとりの神が、その何の感動もない栄光と超力的崇高さから、ただ外に向かって行動するのではない」。「ここでは御父が自分自身にあって、つまりその愛の自己、御子にあって行動する、その結果御子が自分自身にあって、その愛の自己が御父にあって苦しまれたのである」。「十字架にあって、イエスとその神と御父とは、呪いの死によって最も深みにおいて分裂し、その献身によってその最も内奥において一つなのである。御父と御子の間のこの出来事から、献身そのものが出てくる、つまり、見捨てられた者を引き受け、神なき者を義とし、死者を生かす御霊が出てくる。見捨てられる神は、この献身の御霊にあって一つである。」〉(J. Moltmann, Gesichtspunkte der Kreuztheologie heute, Ev. Theologie, 33. Jg., 1973, S. 352f, 354f, 359. さらにH. Geiser, Der Beirtag der Trinitastlehre zur Problematik des Redens von Gott, Z Th K 1968/H 2, S. 231ff.)(ホルスト・ゲオルク・ペールマン[蓮見和男訳]『現代教義学総説 新版』新教出版社、2008年、199~200頁)
この連載で繰り返し述べているように、神の目的は人間の救済です。従って、神は人間の歴史に具体的に介入してきます。それが、イエス・キリストが1世紀のパレスチナの地に、人間として現れたということなのです。このような愛に基づく自己放棄が西側神学の三一論においては示されないといけないとモルトマンは考えます。
ペールマンの記述をさらに見てみましょう。
〈「もし三位一体を、イエスの苦難と死における愛の出来事として考えるならば、その時三位一体は、決して天において自らに閉じられた円ではなく、むしろ、キリストの十字架から出発する、地上における人間のために開かれた終末論的[訴訟]過程である」(Ders., Der gekreuzigte Gott, 1972, S. 235f[『十字架につけられた神』喜田川他訳、新教出版社])。「十字架における出来事から三位一体論が展開されるならば、《神そのもの――私たちのための神》の相違が、内在的三位一体と経綸的三位一体との相違と同じように、廃棄されるように思える」。モルトマンはラーナーと共に、次のような考えをもつ、「《経綸的三位一体は、内在的三位一体である》、逆もまた真である。《神は私たちに三重の仕方で関わりあう、そしてまさにこの三重の仕方の(自由な、何の拘束もない)私たちとの関わりは、ただ単に内なる三位一体の模像とか類比(アナロジー)とかではなく、むしろそれ自体なのである》」(Ders., Gesichtspunkte..., S. 362f.)。
事実、神はただ単に唯一なのではなく、三つにして唯一なのである。モルトマンの表現によれば、神は社会的な神であって、独裁的な神ではない(Ders., Gesichtspunkte...,S. 362f.)。それゆえモルトマンは、「三」性を強調する。この「社会的三位一体論」(A.a.O. S. 35)は、「人格的な社会主義」(A.a.O. S. 217)を形成し、国家と教会――これらは実は専制君主的で「一」性を強調する神概念に依拠していた――における独裁的な構造を排除するはずである。〉(前掲書200頁)
モルトマンは、三一論における三を重視することによって、国家、教会が独裁的に人間を支配しようとする欲望を阻止する、神の啓示を読み解こうとするのです。キリスト教が自己絶対化を防ぐ鍵が三一論の三にあると考えます。それは、モルトマンのネットワーク的な教会理解と深く関係しています。モルトマンにとって、教会とは教会共同体、すなわちキリスト教徒によるネットワークという意味であり、現代に即して考えると「社会」ということになります。三一論において三を重視することで、社会が人間を独裁的に支配するというシナリオも拒否されます。人間によって作り出された国家、社会、教会による自己絶対化を脱構築するという視座で三一論を再評価するモルトマンのアプローチは、基本的に正しいと思います。また、フォイエルバッハやマルクスの疎外論を克服することも視野に入れて構築された三一論解釈です。そのような神は、社会の中で生成していく存在になります。経綸的三一論の系譜に立って、三を重視する三一論で神を理解することにより、神が静的(スタティック)な存在ではなく、動的(ダイナミック)な存在であるという感覚をわれわれに取り戻させようとモルトマンは努力しているのです。