第18回 「創造論(1) 神が創った世界に、なぜ悪があるのか?(1)」
今回から、創造論に入ります。神論について、2回では物足りないと思う読者もいるかもしれません。神の本質と属性であるとか、神の存在に関する証明について論じて欲しいと思う読者もきっといることと思います。確かにこれらのテーマは、伝統的な神学において重要な位置を占めてきました。しかし、神学に触れたばかりの人が、このような問題に深入りすると迷路に入りこんで抜け出すことができなくなってしまう危険があります。このことを考慮して、伝統的神学にとっては重要な論点であっても、今回の連載では、神論について説明するときに絶対に避けて通ることができない三一論、生成する神についてのみ触れることにしました。
神論と創造論は、神学的にはひじょうに近接したテーマです。なぜなら、神がこの世界を創ったからです。神学者の中には、創造論を神論に含めて論じる人もいます。例えば、この連載で頻繁に引用されるアリスター・E・マクグラスもその一人です。
創造論に関して、私は少し変わった切り口から議論を始めることにします。それは、「神が創った世界に、なぜ悪があるのか?」という問題です。神は善なる存在です。しかし、神によって創られたこの世界には悪があります。さらに人間は苦難の中で生きていくことを余儀なくされます。神の善とこの世の悪との関係をどのように理解するかということを、神学や哲学では神義論(Theodizee)といいます。神義論とは、ギリシア語の神(theos)と正義(dike)とからなるライプニッツ(1646~1716年)の造語です。
神学には、神が悪を創ったか否かという問題は存在しません。結論は決まっています。神が悪を創ることはありえず、神には一切この世の悪に対する責任がないのです。こう結論が決まっているので、そこに至るまで、うまく理屈をつけていくのです。神が正しいことを証明するから神義論なのです。これは、神が悪に関与していないと弁護することでもあるので、神義論を日本語では弁神論と表現することもあります。
ちなみに、神義論という言葉を生み出したライプニッツが悪の問題を真剣に考えるようになったきっかけは、三十年戦争(1618~48年)でした。三十年戦争で荒廃したヨーロッパにおいて、カトリックとプロテスタントは並存するようになります。そして18世紀初めに、普遍宗教、普遍言語を作り上げることにより、悪のない世界を構築できるのではないかという雰囲気が出てきたのです。そのような状況で『神義論』を書いたライプニッツは、啓蒙主義への道を拓き、中世哲学と啓蒙主義の橋渡し的な存在になりました。
創造論では、悪をどう捉えるのかが問題になります。神が天上に存在することに対する疑念がまったくなかった古代、中世においては、悪が神学の主要問題になることはありませんでした。悪は人間の原罪に起因するものであり、それはイエス・キリストの贖いにより既に克服されはじめていると考えられていたからです。もちろん、現実の人間の世界は悪に満ちています。しかし、それはキリストが再臨する終わりのときに克服されることに、誰も疑念を抱いていませんでした。ところが、コペルニクスの地動説以降、天に神がいないことが明らかになり、神の存在に対する疑念が出てきます。悪についての問題は、啓蒙主義・近代主義以降の産物なのです。
カトリック神学では、悪の問題について結論が出ています。悪は善の欠如と定義しています。人間は原罪を持っているけれど、イエス・キリストの誕生によって原罪は贖われていると考えるので、根源となる悪は存在しません。そのドクトリンは教会によって維持されているので、教会に所属することによって確実に救われるのです。
これは共産党の考え方と同じです。この世の中には階級という悪があり、本来の階級が存在しない形に戻さないといけない。マルクスやレーニンが啓示した真理があるが、まだ世界革命は起きていない。よって、世界革命が先取りされている共産党に所属すれば救われる。共産党以外に救いはなし、という構成はカトリック神学と同じです。
プロテスタント神学は違います。プロテスタントでは、教会が「見える教会」と「見えない教会」に分かれています。地上にあるのは「見える教会」です。しかし、本当の信者と悪魔の使いのような信者の違いはわかりません。世界の終わりに人々が裁かれる「最後の審判」のときに、「見えない教会」のメンバーが明らかになるのです。神学の本には「教会以外に救いなし」という言葉がよく出てきますが、ここでいう「教会」は、人間は感知できない「見えない教会」を指しています。プロテスタントの視座からは、ローマ教皇をトップにする地上の「見える教会」に救いの根拠はないのです。では、なぜプロテスタントのキリスト教徒は見える教会に帰属するのでしょうか。神からみてどうかはわかりませんが、自分が帰属している教会が救いの根拠であり、我々は選ばれていると信じているからなのです。
ロシア正教やギリシア正教では、イエス・キリストによる救済に関して「悪魔の身代金」説という考え方をします。神が身代金として自分の子供であるイエス・キリストを悪魔に払ったことにより、人間は罪から脱却できたという説です。神が悪でないのは当然の事実ですが、この世に悪が存在しているのも、また事実です。そのメカニズムは人知を超えたところにあるので、考えない――これが正教の結論です。「不合理ゆえに我信じる」という信仰の形にもっていくのです。また、正教では、人間の理性はごく一部でしかないという人間観を持っているので、人知を超えたものは考えないという結論も受け入れやすいのです。
悪は確実にあるけれど、神には悪に対する責任はないし、神は見えないので神の正義を見ることもできない。神が悪を許しておく理由はわからないけれど、神がそれでいいと考えていることを我々は然りと受け止めて、個別の状況においてイエス・キリストに倣う。正教の考えは非常にドストエフスキーの小説に現れています。
しかし、近代人が正教のようなプレモダンな世界像の中で構築された神学的言説を受け入れることは不可能です。神学も学問です。本当に納得できる神学言説以外を「わかった」とか「信じる」と言ってはいけません。
率直に言って、神学的な立場設定は、神学者の教派的なバックボーンから決まります。キリスト教徒でない人が神学的な議論をするときは、自分の趣味に合致する言説を選ぶ選択の自由があります。しかし、キリスト教徒にこのような選択の自由はありません。改革派なのにカトリック的な論理に惹きつけられる人は、いずれカトリック教会に通うことになります。ただ、神学的な刷りこみは非常に大きいので、滅多なことがないかぎり、「ここはどうしてもイヤだ」といって教派を移動することは、ほとんどありません。
さて、キリスト教圏の人たちが抱いている「悪いこと」の概念に影響を与えている聖書の記述に、いわゆる「パウロの悪徳表」があります。
〈そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。作り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうして恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。〉(「ローマの信徒への手紙」1章24~32節)
ただし、これは当時のユダヤ人たちが思っていた「悪いこと」であって、それ以上でもそれ以下でもありません。いずれにせよ、このような悪から、人間が救われることをパウロは確信していました。イエス・キリストの力の前で、悪は木っ端微塵にされてしまうという、悪に対する過小評価がパウロにはありました。