第24回 「創造論(2) 創造とは神の収縮である(1)」
それでは神義論について、掘り下げていこうと思います。ケネス・スリは、プロセス神学の有神論について、こう説明します。
〈プロセス有神論は、A・N・ホワイトヘッド(1862-1947)によって輪郭が示された形而上学的体系に基づいた哲学的神学である。しかしプロセス神義論は実際にはチャールズ・ハートショーンによって体系化された。プロセス有神論の中核は、神は絶対・無比であると同時に、人格的・社会的・時間的であるという原理によって定式化されている。〉(A・E・マクグラス編[熊沢義宣/高柳俊一日本語版監修]『現代キリスト教神学思想事典』新教出版社、2001年、6頁)
キリスト教の神は、生ける神です。それだから、人格的・社会的・時間的にも神が人間に働きかけるのは、当然のことです。主なる神は、人間の主であるのみならず、社会の主、時間の主でもあるのです。ここで重要になるのは、神の二極性です。
〈神は二極的である。すなわち神は無限云々であるけれども、神的経験の過程や形態に作用するためには被造物にも依存する。ハートショーンは、神の存在が世界における悪の存在によって否認されうるということを認めない。神の存在の存在論的主張の有名な弁護者である彼は、「神は存在する」という主張がア・プリオリなあるいは不可欠な真理であるがゆえに、「悪は存在する」という経験的あるいは偶然的な真理によって否定されることはあり得ないと考える。〉(前掲書5頁)
ハートショーンは、現実に存在するこの世界に悪が存在することを認めます。それにもかかわらず、神の存在が否定されることはないと確信しています。なぜそのような確信ができるのでしょうか。ここで重要なのは、創造に対する視座の転換です。ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマン(1926~)は、『創造における神』(1985年、邦訳1991年)で、ユダヤ教のカバラ思想を援用して、こう考えました。「神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。そこは神が不在の世界なので、人間が何かをして悪を生み出すのは当然であり、それに対して神は何の責任も負っていない。神のやったことは、自己撤退して場を作っただけである。」ここでモルトマンの創造に関する言説を注意深く読み解いていきたいと思います。モルトマンは、「無からの創造」について、こう述べます。
〈世界の創造は、神の創造者への自己決定に基づいている。創造しながら自己から出ていく前に、神はご自身に対して決心し、決定し、定めることによって、内側にご自身へと働きかける。「神の自己限定」(Zimzum)というユダヤ・カバラ的教義を使って、このような考え方が深められねばならない。そうすることによって、無からの創造(Creatio ex nihilo)の教義について、より深い解釈が得られねばならない。しかし、われわれは神の自己限定と無についての教義を、十字架にかけられた神の子に対する信仰のメシアニズムの光に照らして、取り上げ用いるであろう。〉(ユルゲン・モルトマン[沖野政弘訳]『創造における神 組織神学論叢2』新教出版社、1991年、135頁)
モルトマンは、「外部から創造がなされた」という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教のカバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。
〈アウグスティヌス以来のキリスト教神学は、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と呼んでいる。キリスト教神学は、この働きを、神の三位一体論的関係において起こる内へと向けられた神の働きと区別する。この神の内と外の区別は自明のこととされたので、次のような批判的問いは一度もなされなかった。すなわち、全能と遍在の神が、そもそも「外」を持つのだろうか。仮定される神の外(extra Deum)は、神にとって一つの限界となるのではなかろうか。誰が神にこのような限界を置けるだろうか。神の外に何らかの領域があるならば、神は遍在ではないであろう。この神の外は、神と同じように永遠であるに相違ない。そうだとすれば、このような神の外は神に相反するものであるに相違ないであろう。〉(前掲書135~136頁)
アウグヌスティヌスは、神は人間と自然を外部から創り出したと考えました。しかし、このような考え方をすると、神は宇宙に遍在していないことになります。神が支配していない領域、すなわち神の主権が及ばない領域がそもそも存在するということになるのです。遍在することができない神は、ユダヤ教、キリスト教の神概念と相容れないように見えます。ここで、カバラー思想を援用して、モルトマンは神の自己限定(その結果、神の収縮が起きる)について考えるのです。
〈しかし、事実、神の外を考える次のような一つの可能性がある。すなわち、創造に先立つ神の自己限定の仮定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神ご自身の「外の」世界を創造するために、無限なる神は前もって有限性に対して、ご自身の中の場所を明け渡したに相違ない。神のこのようなご自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかけることのできる場所を明け渡す。全能と遍在の神が神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する。〉(前掲書136頁)
神が収縮した後にできた空間で、われわれは創られたのです。被造物であるわれわれには、神の収縮が、あたかも外部から神による創造がなされたように見えるのです。神の収縮によってできる原空間についてカバラー思想家のルーリア・イッハーク・ベン・シュロモーは、こう述べます。
〈最初にこのような考え方を神の自己限定(撤退)論の中で展開したのは、ルーリア・イッハーク・ベン・シュロモーであった。撤退は集中と収縮を意味し、自己内へ退去することを示している。ルーリアは、古いユダヤ的内在(Schechina)論を取りあげた。それによれば、無限の神は神殿の内に住むために、自らの現在を縮小することができるのだという。しかし、ルーリアは内在論を神と創造に適用した。神の外の世界の存在は、神の転位によって可能にされる。この転位によって、神がその中へとご自身から出て行き、ご自身を啓示することのできる「一種の神秘的原空間」が明け渡される。「ご自身からご自身へと撤退される場所で、神は神の本質と存在ではないあるものを呼び出すことができる」。創造者は宇宙を「動かずして動かす神」ではない。むしろ、創造にそれ自身の存在の場所を与える、この神の自己運動が創造に先立つ。神はご自身から出て行くために、ご自身の中へと撤退する。神の現在と力を撤退させることによって、神は被造物が存在するための前提を「創造する」。「その最初の行為において外へと働きかけるかわりに、むしろご自身へと向う神の本質の自己限定(撤退)の中に無が現われる。ここにわれわれは、そこで無が呼び出される一つの行為をもつ」。創造と救済における創造的力となるのは、神の自己否定の肯定的な力である。〉(前掲書136~137頁)
神はもともと宇宙の隅々にまで満ちていました。それがあるとき、「縮もう」と決めたのです。人間から見れば神の気まぐれのように見えますが、そこに神の意志があるのです。すなわち、神が自らの場を人間に明け渡すという意志です。
神が収縮した結果、神が存在しない原空間が生じるのです。人間の自由意志は、この原空間で悪を作り出すのです。この人間の悪事に対して神は責任を持ちません。