佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】

第28回 「創造論(3) 聖霊の力(1)」

 この連載で何度も繰り返し述べていますが、キリスト教は、人間の救済を目的とする宗教です。そして、この救済を直線的な時間において実現しようとします。時間には、始点(端緒)があるとともに終点(終末)もあります。ユルゲン・モルトマンが説明する「神の収縮」という創造解釈に基づくならば、神が収縮するという意思を持ち、行為した瞬間が、時間の始点になります。いま、私は「神が収縮するという意思を持ち、行為した瞬間」と述べましたが、これは誤解を招きかねない表現です。なぜなら、この表現だと意思と行為が分離する可能性もありうるからです。しかし、神の意思と行為が分離することはありません。神においては、意思即行為で行為即意思なのです。

 

  真の神の子であるイエス・キリストは、われわれの世界で意思即行為、行為即意思という原則に首尾一貫して従いました。それだから意志と行為を分離しない生き方を貫いたのです。その結果、苦難に参与することになります。この苦難を経由して自由を獲得するという弁証法を、プロテスタント神学は特に重視します。

 「フィリピの信徒への手紙」3章2~11節で、「苦しみにあずかって」いることが救いの根拠であるという議論を展開します。

 

〈あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。〉

 

 パウロは、ベニヤミン族の出身で、厳格なファリサイ(パリサイ)派の中心にいました。ファリサイ派に属していた頃の名は、パウロではなくサウロでした。当初は、イエスを救い主と信じる人々に対して、パウロは弾圧を加えていました。そのパウロが、外部からの力によって回心します。有名な、ダマスコ(現在のシリアの首都ダマスカス)への途上において、サウロは天からの光に打たれて、イエスの声を聞きます。その結果、回心します。このサウロに外部から働きかけ、ファリサイ派のサウロをキリスト教徒のパウロに質的に変化させた力が、聖霊なのです。

 

 ユダヤ教の律法における、テキストに記された義とは、本質的に異なる、信仰に基づいて神から、一方的に、恩恵として与えられる義は、聖霊の力によって与えられます。こうして聖霊に満たされた人にとっては、地上における価値の逆転が起きます。それだから、人間が直面する苦難がキリスト教徒にとっては自由に転換するのです。

 

 モルトマンは、聖霊の働きによる苦難と自由の弁証法的関係について、こう説明します。

 

〈パウロによれば、聖霊の生命の力は、いつも「キリストの苦難にあずかること」(ピリピ三・一〇)においてのみ働きかける。キリストの苦難にあずかることによって、復活と新しい創造の力が知られ効力を生じる(Ⅱコリント四・七以下、六・四)。この力は弱いところに完全にあらわれる(Ⅱコリント・一二・九)。〉(ユルゲン・モルトマン[沖野政弘訳]『創造における神 組織神学論叢2』新教出版社、1991年、140~141頁)

 

 聖霊の力は弱いところに完全な形をとってあらわれるという考え方は、モルトマンだけでなく、カール・バルトやヨゼフ・ルクル・フロマートカにも共通して認められる聖霊解釈です。その根拠になるのが、やはりパウロの言説なのです。パウロは、イエス・キリストが使徒たちに示した出来事についてこう述べています。

 

〈わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。〉(「コリントの信徒への手紙二」12章1~10節)

 

  「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という、パウロが聞いたイエス・キリストの言葉に、キリスト教の特徴が端的に表れています。

 

 この力は、外部から、すなわち神からの聖霊に起源を持つのです。神による創造の行為の中に、人間の救済という目的が埋め込まれています。これは、創造の秩序(あるいは自然)の中に救済の根拠、神の意思があるということではありません。神が収縮し、われわれが生きていく場所ができたときに、神が人間と特別の関係を持つという心の働きを起こしたという関係性に、救済の根拠があるのです。

 

(2013年5月21日更新)
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佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『神学部とは何か』(新教出版社)、『はじめての宗教論』(NHK出版新書)、『新約聖書Ⅰ・Ⅱ』(文春新書)など著書多数。

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