第33回 「人間論(1) 人間になるとはどういうことか(1)」
これから人間論に入ります。人間論を創造論に含めて考えることもできます。なぜなら人間も神によって造られたからです。しかし、人間は前にも述べましたが、原罪を負っています。従って、神の恩寵にあずからない、自然のままの人間にキリスト教は肯定的価値を付与しません。キリスト教神学にとって、自然のままの人間性を尊重するヒューマニズムは否定的概念です。
自然のままの人間について、ロシア文学者で思想家の内村剛介氏(1920~2009年、本名 内藤操)が鋭い洞察をしています。
〈ボリシェヴィズム(引用者註*ロシア共産主義のこと)は人間的だといま言ったが、この"人間的"とは人道的(ヒューマニズム)ということではない。ネアンダルタール風に、すなわち人類学的に人間的だというのである。ボリシェヴィキは、言葉に弱い連中、とりわけ人道的という言葉に弱い連中に対しては、それをも用いるというプラグマチズムを持ちあわせている。しかし根っこのところにあるものは、どのような価値も信じず(当然「良心」などというものは蔑み)、「支配」だけを狙うニヒリズム(価値の位取りをいっさい認めぬもの)だ。ボリシェヴィズムが人間的だというのは、人間の弱みをよく知っていて、それをうまく操作するという意味なのである。人間の浅ましさによってもって立つという点で、まさに人間的だというのだ。
「どうすればいいか」に対して、相手を知ることを述べた。私たちは、ボリシェヴィズムがニヒリズムであると知った。次はそれに対する自分の態度についてだが、ニヒリズムつまり無頼の精神に対してまず心掛けるべきことは、実はニヒリズムそのものが、彼らを支える力を彼ら自身の中から汲み出せない性質のものであるということを踏まえることだろう。ニヒリズムは、その意味では本当は弱いのだ。弱いから強がるのだ。そこを押えて恐がらないこと。恐いと思うときでもなお己の臆病風を克服し己のモラルに立って歯向っていく、それだけがニヒリズムの攻撃に対して己を救う唯一の道だと知るべきだ。〉(内村剛介『ロシア無頼』高木書房、1980年、67頁)
キリスト教は人間の良心に対して積極的な価値を付与しません。良心は、人間の内部の力によって担保されているのではありません。あくまでも外部からの、神の啓示によって人間の良心が呼び出されるのです。神からの召命を抜きに人間の良心は成立しません。