佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】

第40回 「人間論(2) 男と女(1)」

 人間に男と女がいるのは自明のことです。しかし、キリスト教神学は、男権主義的な世界観で人間を描いてきました。この点を反省し、本来の人間観を取り戻すというのが、現代のキリスト教神学の大きな課題です。

 そもそも旧約聖書『創世記』の人間の創造に関する記述には、二つの系統の物語があります。まずは、神が最初から男と女を造ったという記述です。

 

〈神は言われた。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神は御自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。

男と女に創造された。

神は彼らを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

神は言われた。

「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」

そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。〉(『創世記』1章26~31節) 

 

 ここでは、神は、男のみでも女のみでもなく、男と女を造り、神と向き合うようにしました。男と女が神と向き合うように、男は女と、女は男と向き合うことが必要になります。私は、この記述が『創世記』の人間の創造に関する原点と考えています。しかし、残念なことですが、この記述はこれまで、それほど重視されてきませんでした。なぜなら、『創世記』には、人間の創造に関する別の物語があるからです。少し長くなりますが、重要な記述なので、関連箇所を正確に引用しておきます。

 

〈主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。

 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 主なる神は言われた。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 

  主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

「ついに、これこそ

 わたしの骨の骨

 わたしの肉の肉。

 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう

 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。〉(『創世記』2章4~25節) 

 

 聖書は、いくつかのテキストが混在して成立しています。最初の『創世記』1章の、神が男と女を造ったというテキストは「祭司文書」(通常、Pと略します)に基づくものです。これにたいして、『創世記』2章の、神がまずアダムを造り、アダムのあばら骨から女を造るという物語は「エロヒーム文書」(通常、Eと略します)に属するテキストです。この人たちは神をヤハウェ=エロヒームと呼んでいました。しかし、日常的には「アドーナイ」(主人、主)と呼んでいました。ヤハウェ=エロヒームという神の名をみだりに唱えるのが恐ろしいので、その代わりに神をアドナイと記したテキストがあります。これをEと呼ぶのです。

 ここで神は陶器師のように土から人間を造ります。そして、神が人間に息を吹き込むことによって、人間は命を得ます。ここで人間は、他の動物にパートナーがいないか探します。残念ながらパートナーは見つかりません。従って、神は人間から、男と女を創り出すのです。

 聖書を素直に読めば、そのような解釈ができるにもかかわらず、神学者たちは、長い間、神はまずアダムという男を造って、そこから女を造ったという、男を女の上位に置く解釈をしてきたのです。この男権主義的な聖書解釈を脱構築することが現在の神学の課題になっています。

(2013年8月13日更新)
前へ
次へ
バックナンバー
佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『神学部とは何か』(新教出版社)、『はじめての宗教論』(NHK出版新書)、『新約聖書Ⅰ・Ⅱ』(文春新書)など著書多数。

平凡社

Copyright (c) 2012 Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo All rights reserved.