第45回 「人間論(3) 結婚(1)」
バルトの「共なる人間性(Mitmenschlichkeit)」の特徴が肯定面、否定面の双方において、顕著に現れているのが結婚観です。
カトリック教会、正教会で、結婚は、洗礼、聖餐と並ぶサクラメント(イエス・キリストによって定められた救済を保証する儀式。カトリック教会では秘跡、正教会では機密と呼びます)です。これに対して、プロテスタント教会は、結婚にサクラメントとしての地位を与えていません。カトリック教会は、原則として離婚を禁止しています。正教会は、カトリック教会ほど厳しくはありませんが、離婚は特定の条件下でしか認められません。これに対して、プロテスタント教会は、離婚を奨励しているわけではありませんが、禁止もしていません。それは、プロテスタンティズムが、結婚を人間的な事柄と考えているからです。そして、バルトは、結婚が人間的な事柄であることを、プロテスタント神学の立場から、徹底的に掘り下げて考えました。ですから、バルトの結婚観を考察すれば、プロテスタンティズムの人間論の特徴がよくわかります。
まず、男と女の出会いと結婚の間に本質的な差があることをバルトは認めません。慎重で、婉曲な表現ですが、バルトはこう述べています。
〈われわれは、われわれの問題領域全体の中心および目標と呼んだところのもの、結婚の問題、へとくる。われわれは領域全体にわたって、それとしてのすべての男とすべての女そのものにかかわる倫理的な問題に対して場所を造り出すために、さし当たってまずある種の「非中心化」〔の作業〕をなさなければならなかった。換言すれば、その特殊性をもった結婚の問題をいくらか背後に押しやらなければならなかった。これまでも男および女そのものについて語られてきた。しかし彼らがすべて、今われわれが、全体をしめくくりつつ、それだけを特別に〔とり出して〕取り組まなければならない点への方向をとって、自然的な勾配のような何かをもっているということは、気づかれないままでいることはできなかったのである。この点とはまさに結婚である。また結婚も、男と女の出会いと関係という一般的な概念のもとに含まれている。この男女の出会いと関係について一般的に語られることのできるすべてのことは、特にまた結婚についても妥当する。〉(カール・バルト[吉永正義訳]『教会教義学 創造論 IV/2』新教出版社、1980年、127~128頁)
ここでのポイントは、「また結婚も、男と女の出会いと関係という一般的な概念のもとに含まれている。この男女の出会いと関係について一般的に語られることのできるすべてのことは、特にまた結婚についても妥当する」というバルトの認識です。結婚しようがしまいが、人間として一人の男と一人の女が誠実に向かい合うことが何よりも重要である、とバルトは考えます。この点について、バルトはさらに掘り下げていきます。
〈いや、それ以上であって、起源的に、まず第一に、結婚について妥当する。換言すれば、結婚について妥当する特別なことが、いずれにしても、男と女の出会いについて一般的に言われるべきすべてのことに対して、標準を与えるのである。それだからこそ、われわれは、既に、これまでの道の上で暗々裡に常にまた結婚についても語らなければならなかったのである。ここ、結婚のところで、われわれはまさに、両性の出会いの典型(範例)的な形態と取り組まなければならないのである。ここのところで、そうでなければただ、この点に実際に到達することなしに互いに〔向かって〕くるだけで、多くの場合途切れてしまうすべての線が交叉するのである。このところで、そのほかにはただ潜在的であるだけで、多くの場合またただ潜在的であり続けなければならないところのすべてのことが、現実のこととなる。ここのところで両性の〔諸〕関係の構造、その特性、関連性、秩序が、――男と女が出会うところでは確かに原則的にはどこででも問題となるが、しかし実際には決していたるところで現実に出来事となって起こるわけではない真剣な事態の中で――実現され、啓示される。ここのところに、それぞれの男とそれぞれの女は――彼らは、まさにこのところにとどまり、定住しないでいるべきよい〔もろもろの〕理由を持っているとしても――彼らの自然的な故郷を持っている。結婚のこの典型〔範例〕的な性格は、われわれが今――われわれのこれまでの熟考と認識からみて――もう一度全く新しい土地に足を踏み入れることを覚悟していなければならないようにさせるのである。〉(前掲書128頁)
人生においては、さまざまな出会いがあります。結婚がそういった出会いの中で、特徴的なのは、特定の人と、同じ場所に定住することであるとバルトは考えます。裏返して言うならば、戸籍上、結婚はしていても、同じ場所に定住する意志を持たない者たちの間には、真の結婚は存在しないとバルトは考えています。真の結婚においては、第三者を介入させない排他性が重要であるとバルトは強調して、こう述べます。
〈われわれは――さし当たって、ただ輪郭を描くだけであるが――ひとつひとつ、そしてまたそれらの関連性の中で、分けられない全体の要素として、結婚を成り立たせている〔諸〕概念、表象、実在を〔具象的〕に明らかにすることにしよう。結婚においてはさし当たってまず、男と女の出会いの関係がここで、ひとりの特定の男とひとりの特定の女の、(それなりの仕方で)一回的な、繰り返されない、比較を絶した出会いと関係の形態の中で、固定化され、具体化されるということが問題である。また彼らの出会いと関係は、ここでは、生活共同体(Lebensgemeinschaft)を意味している。この生活共同体は部分的なものではなく、完全なものである。それは、当事者双方の人間的現実存在全体にまで及んでいる。それは相互に全き仕方で参与し、参与させ合う。それはまた、包含的ではなく、排他的である。〉(前掲書128~129頁)
結婚によって、一対の男女が生活共同体(Lebensgemeinschaft)を形成します。これは、ライプニッツが述べるモナド(単子)のようなもので、外部と出入りするような窓や扉を持っていません。まったく排他的で、自己完結した世界が、結婚によって形成されるのです。
この点について、バルトは以下のように述べます。
〈すなわち、いかなる第三者もそれにあずかることはできない。さらにまた、それは一時的ではなく、永続的であり、両方の当事者の生涯が続く限り同じように続くのである。そして、その本質と存続の特性に、その基礎づけの特性が対応している。ふたりの特定の人間のそのような具体的な生活共同体〔生きることの交わり〕として、結婚はただ単にそこにあるというのではなく、これらの人間がそれを自分たちと共にそのまま〔携えて〕もってくるというのでなく、しかしまたどこかからかそれがそのまま彼らのところにくるというのでもない。むしろそれは、そのような生活共同体を目ざす当事者双方の自由な決心と行為の形で出来事となって起こるのである。この決心と行為の特徴的な動因は、相互的に、両方の側から一致した仕方でなされる愛の選び(liebeswahl)――その中で男が女を、女が男を、そのような生活共同体の唯一の、決定的な相手として認識し、互いにこの特別な意味とこの特別な意図をもって切望し、肯定し合うことがゆるされ、またそうしなければならない愛の選び――である。最後に、あの決心と行為によるその基礎づけをもってなされるこの生活共同体は、結婚として次のことを通して特徴づけられている。それはすなわち、結婚は――そのことを人は、それから、特に《Heirat》〔「婚姻」(家政、家の管理から由来)〕と呼ぶのであるが――また、人間的なまわりの社会〔環境〕にとっても意味を持っており、〔まわりの〕環境に対してはっきりとした責任性を持って、その承認を受け、確かめつつなされるということである。〉(前掲書129頁)
結婚は、「この決心と行為の特徴的な動因は、相互的に、両方の側から一致した仕方でなされる愛の選び(liebeswahl)」ですが、これは神による選びではなく、人間による選びです。ですから、神による召命と、人間の愛による結婚では、本質的に別の力が働いていることになります。