第51回 「キリスト論(1) 「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」(1)」
今回から、キリスト論に入ります。キリスト教は、イエスが救いであるという信仰によって成り立っています。それですから、キリスト論は、教義学の中で中核をなし、さまざまな議論がこれまでになされてきた分野です。細かい議論を追っていくと、論点が拡散してしまい、事柄の本質がとらえられなくなってしまいます。この連載では論点を絞り込んで議論したいと思います。
ボルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg 1928~)の研究がキリスト論の全体像をとらえるのに有益です。パンネンベルクは、キリスト論について考察する際に二つのアプローチがあると指摘します。
〈キリスト論はあの過去の時代のイエスを第一に問題にするのか、それとも今ここに現臨するイエスを問題にせねばならぬのか、という問いなのである。両者は必ずしも相互に排他的である必要はない。今日宣教されているイエスは、あの当時にパレスチナで生き、ピラトのもとで十字架につけられたお方にほかならないし、またその逆のことも同じく言えるのである。けれども、私たちが、「イエスは誰であるか」について、また「イエスは私たちにとって何を意味するか」についての現在の宣教を、その時起こったことから理解しようとするのか、それとも逆に、その当時に起こった事柄については第二義的に語り、今日ここに宣教がそのことについて語る事柄の光においてのみ語ろうとするかによって、根本的な差異が生じてくる。結局、キリスト論は、イエス御自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ[宣教内容]から着手しなければならないのか、ということが問題なのである。〉(W・パネンベルク[麻生信吾/池永倫明訳]『キリスト論要綱』新教出版社、1982年、5~6頁)
一方において、1世紀に生きたイエスという男の生涯を基点にして議論を組み立てるキリスト論があります。イエスがどのような人物であったかについて、実証的に確定する史的イエスの研究は、19世紀末に、イエスという男がいたともいなかったともいえないという袋小路に陥ってしまったというのが一昔前までの定説でした。最近では、米国系の神学では再び史的イエスの探究が始まっています。その影響が日本の神学界に及んでいますが、私はこの結果は、19世紀の史的イエスの探究と同じ結論に至ると思っています。それですから、このような作業にエネルギーをかけても、神学的には徒労に終わると見ています。
史的イエスの探究が行き詰まったところから、ケリュグマ、すなわち教会の宣教内容からイエス・キリストについて考察するアプローチがでてきます。この流れをきちんとおさえていくことが重要です。
〈神学がイエス・キリストを取り扱う際には、その神学の出発点は彼の教会の宣教でなければならぬという考えは、マルティン・ケーラー以来、非常な影響力をもってきた。この考えを述べたのは、ケーラーが最初であったわけではない。アルブレヒト・リッチェルはすでに、イエスを認識する問題を取り上げた中で、こう語っている。「私たちは、キリスト教会のイエスとの信仰からのみ、イエスの歴史的現実の全容に達しうるのである」と。このような見解は、さらにさかのぼれば、シュライエルマッハー[一七六八-一八三四]とエルランゲン学派とによって示唆された。
ケーラーは、この考えを彼の有名な著書『いわゆる史的イエスと歴史的・聖書的なキリスト』(Der sogenannte historische Jesus und der geschichtliche, biblische Christus, 1892)で、特に取り上げて主張した。ケーラーはこの書の中で、当時全盛を誇っていた史的イエス研究の神学的主張を攻撃した。この史的イエスの探究は、新約聖書の諸書のなかでは互いに結びつけられている人間イエスと彼の使信を、その後の教会の敬虔とキリスト論の展開から、摘出しようと試みたのである。イエスの生涯と彼の宗教とは、現代に生きるキリスト者にとっても、そのまま模範となるべきであった。イエスは、パウロと対置された。パウロは、ハルナックが考えたように、彼自身の奇怪なキリスト論で、イエスの単純な人間性をおおってしまった人物とみられた。このようなイエスとパウロとのきわだった対比は、最近ではE・シュタウファーによって新たに唱道されている。ケーラーの著書は、イエスを単なる人間とするところの史的イエス探究に反対するのである。ケーラーは、イエスと、使徒の宣教するキリストとの間に裂け目をつくろうとする傾向に正当にも抗議した。この意味で、彼の次の主張は正しいといわねばならない。「真実のキリストとは、宣教されたキリストなのである」(同上書、二二頁)。それは「後代にまで強く働きかける人格的影響」(一九頁)が、一般に、その重要人物の歴史的現実に属するということに基礎づけられている。イエスにみられるこの人格的影響とは、「イエスの弟子たちの信仰、つまり、自分たちはキリストにあって、罪責、罪そして悪魔と死に打ち勝ったお方をもったという確信、これである」(一九頁)と言っている。〉(6~7頁)
ケーラーが言う「真実のキリストとは、宣教されたキリストなのである」という考え方が重要です。すなわち、キリスト教の真理性は、史的イエスの探求のような近代的な客観性、実証性によって担保される歴史学の枠組みを超越したところにあるのです。この宣教の内容がケリュグマです。ケリュグマは、主としてパウロの手紙の内容に基づいて構成されています。「神がイエスを死人の中からよみがえらせた」「イエスは主である」という信仰告白が中心になります。この信仰告白には二つの系譜があります。
第一は、キリストの死を人間の罪の赦しとみなして、その死と復活を旧約聖書における預言の成就として解釈するユダヤ型の伝承です。第二は、キリストの死を神とともにあった「神の子」の,神に対する従順の徹底化とみなして、それゆえにキリストは神により「主」として天に挙げられたというヘレニズム型の伝承です。いずれにせよ、イエスが人間を救う根拠であるという信仰告白が導かれます。このような考え方は、ケーラーのキリスト論の延長線上にあるのです。
〈マルティン・ケーラーの主要な関心は、真実のイエスとは歴史家のえがく当時のイエスの歴史像ではなく、むしろ、現在的な事実として体験された信仰のキリストであることを確立することであった。それゆえ、ケーラーは次のように述べたのである。「......現在の生きたキリスト教の諸事実を、もっとも適切に、明瞭にして鋭く表現するのを助ける神学のみを、私は正しい神学と考えることができる」(二六頁)と。現在のキリスト者の体験こそ、彼の思惟の中核を占めるものであった。この点において、ヘルマンもまた最終的にケーラーと一致していた。けれども、ヘルマンは、この現在的な体験は、使徒の使信の影響よりも、人間が現在イエスによって持ちうる体験の中により強く根ざしているとみなした。
キリスト者の現在的な経験を神学の出発点として用いることは、先にふれたように、シュライエルマッハーと十九世紀のエルランゲンのルター派神学にさかのぼることができる。シュライエルマッハーは彼の信仰論において、現在的なキリスト者の体験による逆推論の方法でキリスト論を構成した。〉(前掲書9頁)
シュライエルマッハーは、後期の『信仰論』で、宗教の本質を絶対絶対依存の感情と定義しました。この感情の解釈が、ケリュグマになるのです。