第56回 「キリスト論(2) イエス・キリストは、神の養子ではないのか(1) 」
これまで、パネンベルクの「上からの」キリスト論批判について詳しく紹介しました。パネンベルクの方法は、19世紀の史的イエス研究に親和的です。パネンベルクがなぜこのような「下からの」キリスト論に固執するかについて、教義学的観点から考察してみましょう。
結論を先に述べると、モナルキア主義(Monarchianism)を避けるためです。モナルキアのモノはひとつという意味です。ですから、モナルキア主義には唯一神論、単一神論という訳語があてられることもあります。正統派のキリスト教神学は、神が人間になったというロゴス・キリスト論を採用します。しかし、ここからは、神とイエス・キリストという2つの神がいるのではないかという疑問が生まれてきます。さらに三一論では、聖霊なる神も登場します。こうなると3つの神がいるのではないか、一神教に反するのではないかという疑念が生じます。イスラーム教はこのような視座から、キリスト教が3神教であると非難します。これらの疑念に対し、モナルキア主義者は、キリスト教が一神教であることを断固擁護しようとします。
ちなみにキリスト教神学の場合、以前から何度も述べていますが、論理整合性がきちんとついている言説が異端として却けられる傾向があります。その意味で、モナルキア主義は、論理が首尾一貫しています。
モナルキア主義は、2~3世紀に流行しました。これには、2つの傾向があります。
第1は、キリストの人性、すなわち、人間イエスを強調し、単なる人間にすぎなかったイエスが、神によって養子にされたために、他の人間を救うことができる特別の力を得たと考える傾向です。神の動的な力に注目するのでデュナミスム(Dynamism)と呼ばれ、通常、勢力論という訳語があてられます。
第2は、キリストの神性を強調する傾向です。父なる神自身が、形を変えて、キリストになったのだと考えます。また神は聖霊にも変容します。これはモダリズム(Modalism)と呼ばれ、様態論と訳されます。
パネンベルクは、勢力論のうちの養子論について、こう述べます。
〈神の霊がイエスと結びつく仕方についてのさまざまな表象は、それゆえに第二世紀の問題意識にみられる養子論的なものとして理解さるべきではない。なぜなら、神の霊が独立した本質、固有の位格であるのか、それとも、単に神の力にすぎないのかという問いは、まだ全く問題とされていなかったからである。しかし、この問いにおいてはじめて、古代教会の養子論と、イエスにおける神的な要素が先在の位格であったという正統的な主張とされていた教理とが対立したのである。その人間性によれば、イエスは単に養子によって神の子であったという考えは、古代教会においては、長い間自明なことと思われてきた。八世紀の終り、スペインにおけるいわゆる第二次養子論論争においてはじめて、この理解は処女降誕との関連によって最終的に非難された。
古代教会の養子論は、まず二世紀後半、ロゴス論に対決する形で、神的単一論(die
gottliche Monarchie)から生じたのである。キリスト教信仰の唯一神的な性格を保持するために、神学者たちは、イエスを父と並べて神と呼ぶことを欲しなかった。イエスが神とされるなら、二つの神が存在することになってしまうように見えたので、この考えは、嫌悪され、また、拒否された。こうして抽象的で哲学的に規定された一神論が、イエス特有の神性と論争するための根拠であった。皮なめし業のテオドトスは、聖霊によるイエスの処女降誕を完全に認めた。しかし、テオドトスは、イエスを神的存在として、つまり、「神」と呼ぶことを拒否した。彼によれば、イエスはただ神の霊に満たされた人にすぎないのである。以上によってわかるように、より初期の養子論は、イエスの中に現臨する神の霊が単なる非位格的な力であって、けっして父と並んだ特有の実体ではないと説く教理なのである。
その後一世紀も経たないうちに、より厳密に考え抜かれた体系の範囲において、この養子論は、サモサタのパウロスによってさらにもう一度弁護されたが、二六八年アンテオケで異端の非難をあびた。しかも、サモサタのパウロスは、洗礼によってイエスに吹きこまれた神の霊の非位格的な本質を強調した。彼は他の点では、イエスの道を神に対する前進的な類似として神の類似(homoiosis theo)という図式で考えた。イエスは、善へのたえざる進歩によって、最終的には神と同じ者となるというのである。サモサタのパウロスにとって、イエスは聖霊を受領した人として、その度合いにおいてのみ、モーセや預言者たちと区別されるのである。〉(W・パネンベルク[麻生信吾/池永倫明訳]『キリスト論綱要』新教出版社、1982年、137~138頁)
パネンベルクは、歴史実証主義的立場を重視します。イエスの死後、1世紀後半においては、神の霊が独立した本質を持つ固有の位格であるのか、それとも、単に神の力にすぎないのかという問題が生じていなかったので、養子論も存在しないことを強調します。従って、「ヨハネによる福音書」の冒頭に記されたロゴス・キリスト論は、養子論と無縁であることになります。
パウロによって、キリスト教が非ユダヤ人社会に伝えられるに従って、キリスト教は哲学の触発を受けます。そして、自らの教えを論理的に説明することを試みるようになります。神が一つであり、しかもイエス・キリストが神の子であるという主張を維持するために容易な方法は、イエスはもともと人間であるが、神の養子になることで、神の力を相続したという考え方です。
この考え方のどこに問題があるのでしょうか。それは、イエス・キリストが「真の神」であるという現実を、十分に表現できなくなるからです。養子ではなく実子であるという表象で、父なる神と子なる神が一体であることを表現しようと、使徒たちや古代の教父たちは考えたのです。もっとも現実の人間の世界では、実子であっても、父と子は別人格です。その意味で、「子なるキリスト」という表現も、類比としてとらえるべきです。遺伝子的な連続性があるという意味で、キリストは神の子なのではありません。
さらに養子論の変形で、神の聖霊が満たされることで、人間イエスが神の子になった、という考え方もあります。これは、子なる神の地位を、父なる神、聖霊なる神よりも低くすることになるので、三一論に矛盾します。
4世紀には養子論は、異端として却けられたことになっていますが、その神学的な影響は、実は現在に及んでいます。パネンベルクは、この点についてこんな説明をしています。
〈イエスは神的な人格ではなく、単に神の霊に満たされた人にすぎないという教理は、三一論の教理が重要とみなされる限り、次の世紀ではもはや主張されなくなってきた。それでもなお、たとえ三一論教理が形式的に受け入れられ、また神の類似(homoiosis theo)の推移が、ロゴスとイエスの一致への道として理解されたとしても、サモサタのパウロスの関心は、その後のアンテオケ学派のキリスト論に影響を及ぼした。近代になって、三一論の効力が消滅したときはじめて、まず十六世紀における後期ルネッサンスのイタリアの異端者たちによって、ふたたび養子論が唱道された。古代教会の養子論に非常に似た概念は、十八世紀と十九世紀においてカント、シュライエルマッハー、リッチュル、ハルナック、およびその他の神学者たちに現われている。ここでもまた、イエスが神への類似として提示されているにすぎなかったのは、これらの神学者たちの場合、聖霊は、二世紀にみられた方法で用語的にキリスト論的概念にはっきりと表現されなかったことに起因しているのである。〉(前掲書138頁)
パネンベルクがかなり駆け足で述べていることを、次回は少し詳しく解説します。