第68回 「キリスト論(4) まとめ(1)」
これまで、パネンベルク、クロッサンなど、あえて私の考えと対立する神学者のキリスト論を取り上げてきました。キリスト論のまとめにあたって、私自身の考えを率直に述べたいと思います。
ナザレのイエスが、われわれにとっての救い主(キリスト)であるというのが、キリスト教信仰の核心です。それだから、キリスト教神学の任務は、この核心的事柄を体系知(学術、科学)の言葉を用いて表現することです。
しかし、この課題にすでに根本的な矛盾が含まれています。われわれ人間は、さまざまな点で限界があります。最大の限界は、われわれ人間が死を免れていない存在であることです。神は死を克服することができます。それは、十字架にかけられ死んだイエスが、葬られて、3日後に復活したという出来事によって証明されています。
ちなみにこの出来事を史実として確定するという設問自体に意味がありません。今日、われわれが想定する歴史という概念そのものが、近代的思考という枠組みにとらわれています。歴史的方法で過去を観察して、事実関係を認定することには時代的な限界があります。仮にできたにせよ、中世以前の時代のキリスト教について知る場合、史実を確定するというアプローチを貫き通すことはできません。なぜなら、キリスト教関連のテキストを綴った人々は、歴史記録を残すという目的ではなく、「真の神で真の人であるイエス・キリストに従うことによってのみ人間が救済されることを1人でも多くの同胞に伝える」という目的を持っていたからです。
それですから、後に新約聖書という1冊の本に編集される福音書や手紙などのテキストを書いた著者(正しくは著者集団)と編集者が考えていた事柄を明らかにするというアプローチを取るのが適切です。
神学においては、同じ事柄が、何度も形を変えて出てきます。クロッサンをはじめとする現下アメリカでのイエス研究は、19世紀に袋小路に陥った史的イエス研究の縮小再生産に他なりません。このような事柄に取り組んでも、時間を無駄にするだけと思います。その意味では、この連載の読者には、最新のアメリカ神学の研究を追うのではなく、20世紀の神学、特にドイツ、スイスの神学を勉強することをお勧めします。そう遠くない将来に、プロテスタント神学も再びヨーロッパ大陸の伝統に回帰すると私は見ています。その意味で、この連載で何度も引用しているアリスター・E.マクグラス(神代真砂実訳)『キリスト教神学入門』(教文館、2002年)は、英語圏の神学部における標準的教科書ですが、ドイツやスイスをはじめとするヨーロッパ大陸の神学に紙幅の相当部分を割いているので、適切な神学入門書です。
限界のある人間が、限界のない神について語ることはできません。人間が神について語ることは原理的に不可能なのです。しかし、われわれは神について語らなくてはなりません。神学は「不可能の可能性」に挑むという性格を常に帯びるのです。
さて、神と人間が最も区別されるのは、創造論においてです。人間は被造物です。それとともに自然も被造物です。この世界は、神によって創られたものであるから、実在します。自分の死後に、この世界は消えてなくなってしまうというような観念論をキリスト教はとりません。それだから、キリスト教神学にとって、存在論が重要な意味を占めるのです。キリスト教的存在論の特徴は、世界の限界を認めることです。「この先は、人間の知恵が及ばない」という領域があるという事実を率直に認めることです。そして、この世界の実在性が、人間の知恵が及ばない彼方からの力によって担保されていることを認める場合に、われわれは世界の現実を認識することができるのです。
従って、人間の理性を出発点とする神学は、必ず破産します。クロッサンのイエス研究がその例です。クロッサンは、蓋然性の枠を出ない事柄についても、事実であると判断してしまいます。現下アメリカのイエス研究は、究極的なところで、単純な独断論に陥っています。それですから、人間を救済するという神学本来の機能を果たすことができないのです。
私は、究極的なところで、神から独立した世界の自律性は存在しないと考えています。しかし、それはあくまでも究極的なところでの出来事です。究極以前の世界に究極的な事柄を持ち込むのはカテゴリー違いと私は考えています。例えば、資本主義社会を分析するために、私はマルクスの『資本論』を重視します。それは、人間と人間が作り出した関係である資本主義というシステムについて、論理的にもっとも説得力のある説明をしているからです。経済現象の説明に、神学を用いることはできません。マルクスやその流れを引く宇野弘蔵の方法を適用すれば、資本主義の内在的論理を解明することができます。その結果、私たちは、資本主義システムを対象として認識することができるようになります。その上で資本主義に対して私たちがどういう姿勢を取るかは、神学的な問題になります。それが人間存在の究極性と関係するキリスト教社会倫理の問題になるからです。
人間を神学的に解釈するのは、実に難しい問題です。人間は、誰もが自我を持っています。しかし、それがほんとうの自我なのか、マスメディアの流す情報、文化的偏見にとらわれた偽りの自我なのかはなかなか区別ができません。また、自我の構造も重層的になっています。意識している事柄の背後にある潜在意識に踏み込まないとほんとうの自我が見えてきません。
ここでもう一度、形而上学の伝統に立ち返る必要があります。形而上学とは、目に見えないが、確実に存在するものがあるという前提で成り立つ思考です。伝統的な形而上学は、階層秩序を持つ価値体系に人間を位置づけました。一旦、この形而上学を認めれば、人間の救済は確実になります。カトリック神学は、現在もこの形而上学を維持して、その中で人間の救いを担保しようとしています。
しかし、コペルニクス革命を経てパラダイムが変化した時代に生きているわれわれ近現代人は、伝統的な形而上学を信じることができません。形而上学体系の中で蟄居して世界を拒否するという姿勢は、イエスの生き方に反します。それですから、近現代人は、カトリック教会が尊重するアリストテレス的な形而上学を拒否します。その結果、近現代人は、形而上学から解放されて、現実の世界の中で自由に思考し、行動します。しかし、人間が自由に思考し、活動できる領域は、神から見るならば、この世界のごく一部分に過ぎません。形而上学を失った人は、目には見えないが確実に存在する世界があるという事実に鈍感になってしまいます。そして、人間自身が収縮していきます。その結果、神や永遠の命という目に見えないものではなく、カネやポストなどの目に見える価値を追求するようになります。学歴もその変種です。カネ、ポスト、学歴などが偶像として機能するようになります。人間が作り出したこれらの価値のために競争することで、人間は疲れ切ってしまっています。近現代的存在論を前提とした、新しい形而上学を構築することができればよいのですが、それも簡単にはできないでしょう。なぜならば、近現代人は自律性を強調するからです。われわれは、外部から、超越的な事柄を押しつけられることに対して忌避反応を示します。内容がいかに優れている命題であっても、外部からの権威によって強制される場合、腹の底から納得することはありません。その意味で、近現代人は、自己中心的なひねくれた存在なのです。このことは、人間が人間を信用しないという態度とつながります。
ここでもう一度、キリスト教の神に立ち返る必要があります。神はいかなる意味でも外的な圧力や強制力と結びつけられることはありません。神が、制度を通して働くということになると、その制度が教会であっても、われわれは内発的に神を信じることができなくなります。