佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】

第72回 「救済論(1‐1) 」

 今回から、救済論に入ります。

 キリスト教においては、イエス・キリストが救済の根拠なのですから、救済論はキリスト論の一部を構成します。もっともそういう言い方をするならば、教会論や終末論もすべてキリスト論に含まれてしまいます。神論や、創造論ですら、イエス・キリストを通じて神や創造について語るので、キリスト論に包摂されてしまいます。教義学の各論は、すべてキリスト論的な根拠を持っています。

 教義学の中で、イエス・キリストがわれわれの救いであるというときに、贖罪に焦点をあてた議論を救済論と呼びます。救済論(soteriology)は、ギリシア語のsoteria(救済)を語源とします。伝統的には、「贖罪論」とか「キリストの業」と呼ばれていました。

 ここでまず重要になるのは、イエスの十字架の上での死です。罪を負った人間が、自力で救済されることはありません。「キリストの業」による救済が、どうしても必要になります。この問題について、アリスター・E.マクグラスが手際よくまとめているので、それに即して議論を整理します。 

〈新約聖書は旧約聖書の持っているイメージや待望によりながら、キリストの十字架上での死を犠牲と捉えている。この行き方は、特にヘブライ人への手紙とかかわりの深いもので、キリストの犠牲の捧げ物を効力のある完全な犠牲とし、この犠牲は旧約聖書の犠牲がただ模倣するだけでなし遂げられなかったことを達成し得たとする。特にパウロが用いるギリシア語hilasterion(ロマ三・二五)はキリストの死を犠牲として解釈したものである。

 この思想は、その後のキリスト教の伝統において発展させられることになる。人類が神の許へと回復されるために、仲保者は自らを犠牲としなければならなかった。この犠牲なしには、そのような回復は不可能であった。〉(アリスター・E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、561頁)

 パウロが用いたhilasterion(ヒラステーリオン)とは、エルサレムの神殿に置かれていた「契約の箱」もしくは、「箱の蔽い」を指します。神殿が破壊された後は、ヒラステーリオンがかつて置かれていた場所を指すようになりました。「贖いの日」にそこに犠牲の血が注がれました。

 イエス・キリストの福音は、旧約聖書に記された律法を完成させます。ユダヤ教における子羊による犠牲(贖い)が、キリスト教においては、イエス・キリストという真の神で真の人である方の犠牲によって完成するのです。この点について端的に述べたのがパウロです。

〈ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖い(引用者註*ヒラステーリオン)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。〉(「ローマの信徒への手紙」3章21~26節)

 神はこれまで人間の罪を見逃していましたが、もはや忍耐の限度に至ったので、自らのひとり子であるイエス・キリストをこの世界に派遣して、罪を贖うための「供え物」として献げることによって、人間を救済したのです。人間の罪が忍耐の限度に至っても、人間を滅ぼすのではなく、救済するところにキリスト教の神の特徴があります。

 子羊の犠牲をキリストの贖いという形に神学的な整理をしたのがアタナシオスです。キリストの犠牲は、旧約で求められていた犠牲よりも遙かに優れていて、人間を完全に救済する担保になるとアタナシオスは考えます。

〈アタナシオスは「復活祭書簡七」(三三五年に書かれた)において、キリストの犠牲という思想を過越の子羊の犠牲という視点から探究している。

[キリストは]真に父なる神のものでありながら、我々のために受肉した。我々に代わって父に自らを献げるためである。そうして自らの捧げ物と犠牲とによって我々を贖うためである。......これこそかつては子羊として、その子羊において予見されていたその方である。しかしその後、彼は我々のために殺された。我々の過越なるキリストは犠牲となったのである(Ⅰコリ五・七)〉

(前掲、マクグラス『キリスト教神学入門』562頁)

 アタナシオスも、パウロの思想を発展させています。パウロは、「コリントの信徒への手紙一」5章6~8節において、〈わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。〉と述べています。

 パウロ、アタナシオスの系譜にアウグスティヌスも位置づけられます。この点についてもマクグラスがわかりやすくまとめています。

〈例えばアウグスティヌスは犠牲の思想を引き継いで、キリストは「罪のために犠牲とされた。その受難の十字架において自らを焼き尽くす捧げ物として献げた」と述べている。アウグスティヌスはキリストの犠牲の本性についてのこの議論全体に新たな明晰さを与えた。『神の国』において示された明晰で非常に影響力のある犠牲の定義によってである。「真の犠牲は我々を神との聖なる交わりに結び付けようとするあらゆる行為において献げられている」。この定義に基づいてアウグスティヌスは何の困難もなく、キリストの死を犠牲として語る。「キリストの死は我々のために献げられた真に唯一にして最も真実な犠牲であるが、これによってキリストは、王たちや諸力が我々に償いを合法的に求めさせることになるいかなる罪過をも清め、廃棄し、消滅させるのである」。この犠牲においてキリストは、犠牲と祭司との両方となっている。彼は自らを犠牲として献げる。「彼は我々のために犠牲を献げた。どこに彼は献げるべき汚れのない犠牲を見出したか。彼は自らを献げた。他に見出し得なかったからである。

 キリストの犠牲についてのこの理解は中世を通じて決定的な重要性を持つものとなった。そして、西方のキリストの死の理解を形成した。」〉(前掲、マクグラス『キリスト教神学入門』562頁) 

 神と人間の仲介者(仲保者)は、単なる媒介項ではありません。仲介者自身が神であるところに、ユダヤ教とキリスト教の本質的な相異があります。

 

 

 

 

(2014年4月 1日更新)
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佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『神学部とは何か』(新教出版社)、『はじめての宗教論』(NHK出版新書)、『新約聖書Ⅰ・Ⅱ』(文春新書)など著書多数。

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