佐藤優 【日本人のためのキリスト教神学入門】

第77回 「救済論(2‐1) 」

 アンセルムスの救済論は、プロテスタント神学において、特別の意味を持つので、詳しく論じることにします。

 正直に告白しますと、私はアンセルムスの贖罪論がどうもストンと腹に落ちないのです。アンセルムスが、人間の悪を過小評価しているように思えてならないからです。それだからこそアンセルムスの贖罪論を、反面教師として、私たちは学ばなくてはならないのだと思います。

 アンセルムスの贖罪論についても、マクグラスが実に的確にまとめています。

〈アンセルムスの強調点はひとえに神の義に向けられている。神が人間を贖うとき、その方法は神の義の性質と全面的に一致していなければならない。アンセルムスの『クー ル・デウス・ホモ(神はなぜ人間となられたか)』は対話形式で書かれたもので、人間の贖いの可能性の問題に一貫してかかわっている。分析の途中で彼は、その成功度については議論の余地はあるものの、受肉の必然性とイエス・キリストの死と復活が持つ救済能力とを証明している。証明は複雑であるが、以下のように要約出来よう。〉(アリスター・ E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、573頁)

 そう述べて、マクグラスはアンセルムスの論点を5点に集約します。

〈1 神は人類を原義の状態に創造した。その目的は人類を永遠の祝福に与らせることで あった。

2 その永遠の祝福の状態は、人間の神への従順に依存している。しかしながら罪によっ て人類はこの必要な従順を達成出来ない。これは元来、神が人間を創造したときの目的を 挫折させるように見える。〉(前掲書573頁)

 「原義の状態」とは、創造されたままの本来の状態において、人間は罪を持っていないので、神によって祝福される状態であったということです。悪は人間の罪によって生まれ ます。従って、人間に対する神の責任を回避するためには、人間が罪なくして創造されたという理屈が必要になります。その意味で、アンセルムスもスコラ学的な思考をしています。

 罪は神に対する人間の反抗という形で表れます。そのことによって、神が創造したこの 世界に悪が生まれます。しかし、神は悪を創造したのではないので、この点について説明しなくてはなりません。そこでアンセルムスは、以下の説明と解決手段を考えます。

〈3 神の目的が挫折させられることはあり得ないので、この状況への対策がなされなけ ればならない。しかしながら、この状況への対策は罪の償いがなされることしかない。言い換えれば、人間の罪によって引き起こされた違反が取り除かれる何かがなされなければ ならない。

4 人間がこの必要な償いをすることは出来ない。それに必要なものを欠いているからで ある。他方、神は要求されている償いをなすのに必要なものを所有している。

5 「神-人」が要求されている償いをする(神として)能力と(人間として)義務との両方を備えている。それゆえに受肉が起こったのであり、それは要求されている償いをなし、人類を贖うためなのである。〉(前掲書53頁)

 人間は、神の命令に違反したが、それを回復する能力を持たないとアンセルムスは考え ます。神は罪を犯していないので、罪を克服するために何かを行う義務を負っていません。そこで、真の神で真の人であるイエス・キリストならば、能力と義務の双方を持つので償いが可能になります。こういう発想も、論理を過度に重視するスコラ学に特徴的です。

 マクグラスも、アンセルムスの償いについては、さまざまな神学的解釈がなされている ことについて説明します。

〈この思想は当時のゲルマン法から来たのかも知れない。この法においては違反は、それに ふさわしい代償によって除かれると規定されていたのである。しかしながらほとんどの学 者たちは、ここでアンセルムスが教会にあった悔悛の制度を直接に持ち出していると信じてい る。悔悛を求める罪人は、あらゆる罪を告白するように求められた。赦しを宣言するにあたって、司祭は悔悛した者に何かを「償い」としてするように(例えば巡礼に行くとか、慈善の行為をするとか)要求することがあった。つまり、赦しに対する感謝を公に表明する手段を要求することがあったわけである。アンセルムスがここから自分の思想を導き出したということは、あり得る。〉(前掲書574頁)

 悔悛に見返りを求めるという発想は、贖宥状(いわゆる免罪符)につながりかねない発想です。このような発想が出てくるのは、悪が「善の欠如」に過ぎない程度のものだという悪の力に対するアンセルムスの軽視があります。もっともこのような発想はアンセルムスだけでなくカトリック教会の神学者に共通した見解です。

 アンセルムスの償いの概念を発展させたのが、トマス・アクィナス (1225?~1274年)です。

〈「償い」の概念の神学的基礎が発展させられたのは十三世紀のことで、トマス・アクィナスによるものであった。アクィナスは人間の罪の償いをなす「キリストの償い」ということが適切である根拠を三つ挙げている。

 適切な償いがなされるのは、違反した者がされた者に対して、相手の違反に対する憎し みよりも大きな喜びを与えるものを提供するときである。さてキリストは愛と従順との結 果としての苦難によって、人類の違反全体の償いに必要なものよりも大きなものを神に献 げたのである。第一に、愛の大きさのゆえに。その結果としてキリストは苦難を受けた。第二に、償いのために投げだした命の価値のゆえに。それは神と人間の命であった。第三 に、キリストが引き受けた受難と包括性と悲しみの大きさのゆえにである。〉(前掲書574頁)

 キリストの愛が大きいが故に苦難を受けたという主張は、トマスよりも前にペトルス・ アベラルドゥス(1079~1142年)が展開した、十字架におけるキリストの死が愛に基づくものであったという考え方を継承しています。もっともイエス・キリストの死の価値は、キリストの神性に基づくものという考え方にトマスは引き寄せられています。それだから、人間の罪を負って死んだことを償っても、有り余る価値があったという認識につながるのです。

(2014年5月 7日更新)
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佐藤優
写真提供=共同通信社
【著者略歴】
1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。同志社大学大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞)、『自壊する帝国』(大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『神学部とは何か』(新教出版社)、『はじめての宗教論』(NHK出版新書)、『新約聖書Ⅰ・Ⅱ』(文春新書)など著書多数。

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