第83回 「救済論(3‐1)」
神学の勉強で重要なのは、「漆塗り方式」です。複雑な事項を一遍に詰め込んでしまうのではなく、漆塗りのように、何度も同じ事柄に立ち返り、繰り返していきます。しかし、それは単純な反復ではありません。少しずつ講義の密度が濃くなっていきます。神学は、単なる知識の集成によっては完成しません。キリスト教が救済宗教であることに対応して、神学も人間の救済についての指針を示すことが究極目標になります。教義学には、神の言葉、神論、創造論、人間論、キリスト論、和解論などさまざまな分野があります。いずれの分野も「イエス・キリストは救いである」という単純な真実を、異なった切り口から論じているのです。神学とは、同じ事柄を別の言葉で語ることです。
16世紀末から17世紀に、人間の思想に啓蒙主義という考え方が入ってきました。暗い部屋に蝋燭を一本ずつ点けていくと、徐々に明るくなって、周囲が見えていくようになります。ここで蝋燭にあたるのが人間の理性です。人間の理性の能力を磨いていけば、人間は世の中がよりよくわかるようになるという楽観的な人間観です。
もっとも蝋燭の光が点く前は、部屋の中は真っ暗です。それだから、光と影の区別はありません。これに対して、部屋に明かりがともって、そこにある物の姿がはっきり見えるようになると、同時に物の影も見えるようになります。この単純な事実に人類が気付くのにかなり時間がかかりました。19世紀ヨーロッパのロマン主義者は、啓蒙の限界に気付きました。しかし、影を感情や情念といったロマン主義的で、肯定的な感情に転換していきました。
第一次世界大戦の大量殺戮と大量破壊に直面してはじめて、人類は啓蒙の限界を自覚しました。啓蒙によって生まれた科学技術、社会工学が、闇の力と結び付くと人類を破滅させる危険性があることを自覚したのです。
いまここで、大雑把な道筋を記しました。これを救済論と啓蒙主義という観点から、ていねいに論じていきたいと思います。マクグラスは、啓蒙主義の台頭が救済論に与えた影響について、こう指摘します。
〈啓蒙主義的世界観の興隆によって、超越的な要素、つまり神に対して影響を与える犠牲という思想であるとか、罪のゆえに課せられていた罰を受け、あるいは償いをするためにキリストは死んだといった思想を取り入れていた贖罪の理論に対して、しだいに批判的な目が向けられるようになっていった。啓蒙主義とかかわる復活への懐疑的な態度の深まりによって、神学者たちは自分たちの贖罪論にこの要素を取り入れなくなっていき、以前の世代の熱心さに触れようともしなくなっていった。その結果、啓蒙主義に同情的な神学者たちは、十字架そのものを強調するようになっていったのである。〉(アリスター・E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、582頁)
もっともここで強調される十字架は、真の人としてのイエスが死んだ場です。原罪論は、キリスト教的人間論の要です。原罪という概念が消えてしまうと、キリスト教は成立しなくなります。啓蒙主義によって、理性が事実上の神の位置を占めてしまったがために、原罪が消え、救済論の構築が難しくなったということは、容易に理解できます。それと同時に、神学を営む思想の前提が変化しています。それは、自然観の変化です。
中世において、自然は二つに区別されました。
第一は、天上界の秩序です。ここでは、神の意思が直接、貫徹され、正しい秩序と正義が実現されています。
第二は、原罪によって堕落した人間たちが形成する地上界の秩序です。人間が罪を負っている以上、不正、悪、苦難など、天上界とまったく逆の状態にあることが、地上界においては、自然なのです。
これに対して、啓蒙主義ではこのような二元論的な自然観を取りません。ガリレオ、コペルニクス以後、地球は球体であり、太陽が地球を回っているという天動説ではなく、地球が太陽を回っているという地動説が主流になりました。地動説的な世界観に立つと、「上にいる神」という概念が説得力を失います。宇宙的規模で考えた場合に、上と下という位置が成立しなくなります。
具体的に考えて見ましょう。日本とブラジルは、地球という球面上で対蹠にあります。日本から見て、上とは、ブラジルから見れば下のことです。逆に日本から見て下に当たる方向は、ブラジルから見れば上です。上と下が意味を失うことによって「天にましますわれらの神」という概念も、物理的な位置を失います。
また、天上界と地上界という二つの自然が、一つになりました。結果的には、天上界の自然が地上に降りてきて、罪にあふれた地上界の自然は、どこかに消えてしまいました。
その結果、自然法の性格が変化します。中世においては、疫病、暴力、不正などの悪がこの世界に充満している方が自然法に合致した状態でした。しかし、啓蒙主義の流行とともに罪が地上から消し去られてしまったので、正義、秩序、平和、平等、人権などが自然法とされたのです。その結果、楽観的な人間観が社会を支配しました。
ところで、人間に罪がないということになれば、イエス・キリストが、罪から人間を救い出すという事柄に対する関心が薄れていきます。このことが教義学に与えた影響についてマクグラスはこう記します。
〈多くの啓蒙主義の神学者たちは、キリストが全く同時に完全に人であり、また神でもあったと主張する「両性」の教理についても問題を感じていた。最も忠実に啓蒙主義のキリスト論の精神を表現していると思われるキリスト論の形式は、程度のキリスト論である。つまり、キリストと他の人間との間に本性の違いではなくて、程度の違いを認識するキリスト論である。この見解においては、イエス・キリストは他のあらゆる人間に現実に、あるいは潜在的に備わっているある質を体現していると認識される。そして、その場合の違いは、イエス・キリストにおける体現の持つ程度がはるかに勝っているところにある。〉(前掲書582頁)
「両性論」とは、イエス・キリストを、真の神で真の人と考えるキリスト教の教理の基本です。しかし、啓蒙主義を信奉する神学者は、イエス・キリストの神性を軽視もしくは否定することによって、神学をヒューマニズムに還元していこうとします。要するに、イエス・キリストは、偉大な人間で、模範的な人生を示したわれわれの先生であるという認識になります。このようなキリスト論を持つのが、米国で有名なユニテリアンです。