第115回 「教会論(3-1)」
さて、ここで教会論をめぐる歴史的な議論に立ち返ります。
教会について扱う神学の分野が教会論です。教会論は、キリスト教がローマ帝国によって弾圧されている時期には、それほど議論されませんでした。迫害に耐えて存在する教会が何であるかについて、キリスト教徒の見解が一致していたからです。激しい弾圧に晒され生き残るのに必死で、教会論について議論している余裕がなかったというのが実態だったのでしょう。
313年のミラノ勅令によって、キリスト教も公認宗教に加えられました。このことによって事情が大きく変化します。313年のミラノ勅令は、ローマ帝国の西部を支配したコンスタンティヌス1世と東部を支配したリキニウスの連名で出されます。両者ともローマ帝国の皇帝(正帝)でした。324年にコンスタンティヌス1世はローマ帝国を単独支配する文字通りの皇帝になりました。コンスタンティヌス1世はキリスト教優遇政策を取りました。しかし、ローマの伝統宗教を廃止せずに自らは最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号を死ぬまで保持しました。コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の統一を維持する宗教として、キリスト教が有用と考えます。当時、教会では、父なる神と子なる神(キリスト)の関係をめぐって、激しい論争が展開されていました。父と子が同一の本質を持つと考えるアタナシウス派と父の方が勝っていると考えるアリウス派が対立していました。コンスタンティヌス1世は325年にニカイア公会議を主宰して、教会の統一につとめます。ここでニカイア信条が採択され、アタナシウス派の立場で教会は一致したように見えましたが、アリウス派とアタナシウス派の対立は解消されませんでした。コンスタンティヌス1世は、アリウス派とアタナシウス派の間を揺れ動きます。コンスタンティヌス1世は、337年5月22日に死去しますが、死の直前に、アリウス派の司教から洗礼を受けました。こうして、教会と国家は対立関係ではなく、共存するようになります。そうなると、教会と国家の関係を整理する関係が生じます。また、地方の教会間の関係も調整しなくてはならなくなります。ここから、ローマの教会とコンスタンティノポリスの教会の競合を調整する必要が生じるようになりました。マクグラスは論点をこう整理します。
〈一つの実際的な問題が、教会論の問題をもっと考察されるようにした。ごく初期に、特にローマとコンスタンティノポリスの教会の指導者たちの間で、対抗認識が育ってきた。初めの四世紀の間は多くの中心地が特に高く評価されていたが、その中でも特に重要であったのがアレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンティノポリス、エルサレム、ローマであった。しかしながら四世紀の終わりまでには、ローマ帝国の中心であるローマが特に飛び抜けた地位を獲得したことが、しだいに明らかとなってきたのである。「教皇(pope)」という言葉はラテン語papa(「父」)に由来するものであるが、これは初めはどのキリスト教の司教にも使ってよいものであった。しだいに、この言葉は教会の最も重要な司教、つまりローマの司教にいっそうよく用いられるようになっていく。一〇七三年以降、この称号は排他的にローマの司教のためのものとなった。そうすると問いが生じてくる。ローマの司教は自分自身の管職区の外においてどのような権威を持つのか。
実際的に言えば、答えは全く簡単である。つまり、多くの権威なのである。ローマの司教(ここから「教皇」という言葉を使う。少々時代錯誤になるけれども)は全地中海世界のさまざまな教会の紛争の調停を、しばしば依頼されたのである。〉(アリスター・E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、650頁)
ローマは、パウロが伝道に出かけた地であり、ペトロとパウロが殉教したと伝えられる地です。当時のキリスト教にとってローマが特別の意味を持っていることは間違いありません。問題は、それが人間の救済とどう関係するかです。
〈五世紀にネストリオスとエルサレムのキュリロスが果てしないキリスト論論争に入ったとき、解決の道が全く見えないことが明らかとなったので、どちらも急いでローマに赴き、教皇の支持を得ようとしたのである。
しかし、この優先権に神学的根拠はあるのだろうか。東方教会は躊躇なく「ない」と宣言した。しかしながら他の教会は、それほど確信を持てなかった。教皇は聖ぺトロの後継者であり、聖ぺトロはローマで殉教したのである。新約聖書において明らかな「ぺトロの首位性」(マタ一六・一八)を考えると、それによってぺトロの後継者には他に対する権威があることにはならないであろうか。東方教会の人々をも含めた多くの人々には、ある不可解な仕方でローマの司教としてのぺトロの後継者に、ぺトロの霊的権威が伝達されるように思われたのである。カルタゴのキプリアヌスは、キリスト教世界全体に対するローマの司教の地位が持つ首位性を熱心に擁護した西方の思想家の一例である。この問題は、教会史の多くの時点で新たな重要性を帯びることになる。特に宗教改革はその明白な例である。〉(前掲書650~651頁)
神学上のいくつかの命題は、キリスト教徒の所属する教派によって決まっています。ローマ教皇の首位性もまさにそのようなテーマです。カトリック教会は、ローマ教皇に首位性が「ある」と答え、正教会やプロテスタント教会などは「ない」と答えます。従って、この問題について議論しても、あまり生産的ではありません。ここで切り口を変えて、「救いの確実性」という観点から「正統的なキリスト教会とは何か」という問題に取り組んでみると、ローマ教皇の機能に別の光があたります。この問題について検討する前に、カトリック教会、正教会、プロテスタント教会を含む正統的な教会が基盤にする「使徒信条」について検討しなくてはなりません。
「使徒信条」という言葉は、4世紀末に登場しています。古くからローマで唱えられていた信条であると言い伝えられていますが、カール大帝(742~814年)の時代の典礼統一にともなって普及しました。7世紀頃に南ガリア地方で生まれたものと見られています。日本のプロテスタント教会は、通常、以下の訳文を用いています。
〈我は天地の造り主、
全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、
我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、
死にて葬られ、
陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがへり、
天に昇り、
全能の父なる神の右に坐したまへり、
かしこより来りて、
生ける者と死ねる者とを審きたまはん。
我は聖霊を信ず、
聖なる公同の教会、
聖徒の交はり、
罪の赦し、
身体のよみがへり、
永遠の生命を信ず。
アーメン。〉
使徒信条を読み解いていくと、教会がどのような信仰の基盤で成立しているかがわかります。