第157回 「教会論(4-1)」
これまでにも繰り返して述べたことですが、キリスト教神学は、同じ事柄を別の切り口から、何度も繰り返して説明します。そこで伝えたい中心的な使信は、イエス・キリストを信じることで人間は救われるという真実です。この問題について、私たちは、プロレゴメナ(序論)、神論、創造論、人間論、キリスト論、救済論の順番で検討してきました。現在、教会論の最終部分にさしかかっていますが、その後は、信仰論、終末論について検討し、この連載は終わります。
教会論については、かなり紙幅を割いて、ヤン・ミリチ・ロッホマンの使徒信条解釈について検討しました。これは同時に、これまで勉強してきた神論、キリスト論の復習と、これから勉強する終末論の予習にもなったはずです。教会論で学ぶべき事柄は、既にほとんど終えていますが、最後に、キリスト教の教会が、なぜたくさん存在し、一部の教会は激しく対立しているのかという問題に取り組まなくてはなりません。
キリスト教徒は、目には見えないが、確実に存在するイエス・キリストをかしらとする教会に所属しています。このような見えざる教会は、終末の日になって、初めて現れるのではありません。現実に存在する教会を通しても、目に見えない教会が現れているのです。この現実を承認しているので、キリスト教徒は教会に通うのです。さまざまな教会が説教壇を通じて伝えられる神の言葉と、イエスによって制定されたサクラメントを執行することによって、イエス・キリストをかしらとする教会であることを確認します。昨日まで、イエス・キリストをかしらにしていた教会でも、明日からイエス・キリスト以外のものを究極的な価値に定めてしまうならば、それは偽りの教会になります。どのような教会であっても、地上に存在する教会は、人間の共同体なのですから、偽りの教会に堕落してしまう危険をはらんでいます。
これまで自分の所属していた目に見える教会が、イエス・キリストから離れてしまったと感じるとき、キリスト教徒は別の教会を形成することがあります。カトリック教会は、自らが唯一の正統的でかつ普遍的な教会であると考えています。プロテスタントは、そのような立場に立つことが出来ません。教会には、イエス・キリストによって建てられたという要素と、罪を負った人間によって構成されている組織であるという要素があります。人間が形成した組織である以上、自分たちが所属する教会を含め、過ちから逃れることはできないという自己批判的姿勢をプロテスタント教会は堅持しています。
裏返して言うならば、プロテスタント教会は、その本質において自己絶対化を脱構築する性格を帯びています。一個人としてのキリスト教徒は、自分の所属している教会は絶対に正しいと考えています。しかし、他の人が別の教会を絶対に正しいと考えていることも理解します。この点から見るならば、プロテスタント教会は、価値相対的です。それだから、イエス・キリストに対する信仰が救いであるという一点で、それ以外については差異を相互に認めつつ、もう一度、細分化されたキリスト教会が再一致を目指すエキュメニカル運動にプロテスタント教会の主流派は熱心です。ドイツのルター派神学者のホルスト・ゲオルグ・ペールマンは、エキュメニカル運動の難しさについてこう述べています。
〈真の教会は、諸教派の上にただよう、あるいは終末のものとしてまだこない、見えざる超教会ではない、むしろそれは、諸教派の中に求められ、しかもキリストが唯一の救いの根拠として御言葉とサクラメントにおいて宣べ伝えられ、こうして教会本来のしるしが見えるところには到るところに求められる。この救いの根拠キリストが、教会の本質構成要素であるならば(Iコリント三・一一)、また教会がこの唯一の救いの根拠キリストによって立ちもし、倒れもするならば、キリストと共に教会の一致もまた立ちもし、倒れもする。この唯一の救いの根拠イエス・キリストをひっくり返す者は、(そのような者のみが)「異なる福音」を教え、教会から分離する者である(ガラテヤ一・六以下、Ⅱコリント一一・一)。このような唯一の救いの根拠を疑問視する教会とは(しかもこのような教会のみとは)、教会一致が不可能である。「教会の一致」はしたがって、「前もって与えられた」、「その根拠から与えられた」ものであって「こしらえられた一致」ではない(E.Kinder, Der ev. Glaube und d. Kirche, 1960, S.199)。〉(H・G・ペールマン[蓮見和男訳]『現代教義学総説 新版』新教出版社、2008年、460~461頁)
例えば、アドルフ・ヒトラーをドイツ民族の救済主としてイエスと並列した「ドイツ・キリスト者」の教会は、「唯一の救いの根拠キリストによって立ちもし、倒れもする」というイエス・キリストをかしらとする教会と共通の基盤を持っていません。従って、このような教会と一致することはできないのです。ペールマンは、教会の再一致は、加算法や減算法によっては実現できないと強調します。
〈それはいわゆる〈加算法〉(教派間の異なる教理を単に一つの真理の異なる様相として単純に加えていく方法)によっても、またいわゆる〈減算法〉(ただ教派間に共通なもののみを確定して、すべて分離するものを減じていく方法)によっても、はたまた真理の相対化から出発することやただ一致のためにのみ――真理のためにではなく――一致を求めるその他の方法によっても、こしらえ出すことはできない。そうなると、ほかの神学外の諸要素がおどり出てくることになる。真の一致は、真理における一致である。新約聖書においては一致は、それ自体が目的ではない、むしろ両面的価値をもつ(ヨハネ一七・二〇以下――黙示録一七・一三!)。真理への真剣さを欠くことは(「私たちはみなただひとりの神をもつのだから」と)、教派的無関心主義からだけ出てくるのでなく、また教派間の限界を熱狂主義的に混同してしまう世界教会的ロマン主義や、教会一致熱狂主義からも出てくる。一致は、教派間を貫いてのみ存在する。決して教派を(そして真理問題を)通り越しては存在しない。
最近しばしば言われている一致概念、すなわち「有機的統合」、「友好的共同体」、「和解的相違性」といったものは、少なくとも、それが強制的二者択一であろうとし、真理のための分離という特殊例をも排除するならば、問題である。〉(前掲書461頁)
キリスト教会が、教理の差異をあいまいにして、数の論理で教会合同を行っても、そのような教会は、内的生命を枯渇させてしまう危険があります。