第162回 「信仰論(1-1)」
今回から信仰論に入ります。プロテスタントの3原理の1つが、「信仰のみ」です。これは、カトリック教会の「信仰と行為」という考え方を根本から否定します。信仰があるならば、それはただちに行為になって現れるので、信仰と行為の分離を前提にした、両者を「と」でつなぐような神学をプロテスタントは拒否するのです。
旧約聖書における信仰とは、ヤハウェの行為に対して人間が正しく応答することです。預言者の態度に信仰が端的に現れています。この姿勢は、イエスにも継承されています。信仰におけるユダヤ教とキリスト教の連続性をヨゼフ・ルクル・フロマートカは強調します。
〈新しい契約の共同体としてのキリスト教会は、契約の民から、シナイでモーセに与えられた旧約を受け入れた。もちろんキリスト教会は新しい内容も加えたが、法と正義、服従と責任を信仰と神に対する真の奉仕の中心に属すると考えるイスラエルの遺産に本質的に与している。律法は恵みの賜物であった。つまり、エジプトの奴隷制からの解放に照らし合わせてのみその真の深みを理解することができた。シナイの律法(十戒。出エジプト記20章1~17節)は、愛情深い神の宣言であり、神はその民を、迷信、偶像奉仕、運命、魔術(魔法)の中をよろめく民族の中での無二の預言の担い手として、そして自らの意志の道具として選んだ。〉(ヨゼフ・ルクル・フロマートカ[平野清美訳/佐藤優監訳『人間への途上にある福音――キリスト教信仰論』新教出版社、2014年、300頁)
キリスト教徒は、新約聖書の精神で旧約聖書を解釈します。フロマートカは、モーセの十戒を、「愛情深い神の宣言」と解釈します。律法を愛の精神で解釈するというアプローチはキリスト教的です。従って、律法を破った者が神の怒りに触れ滅ぼされるという方向での解釈を行いません。律法は、神の愛の道しるべなのです。
「出エジプト記」に記された十戒を引用しておきます。
〈神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」〉(「出エジプト記」20章1~18節)
このうち、安息日を守れ、父母を敬えというのが「~しなさい」という肯定命令で、それ以外は、「~をしてはいけない」という否定命令です。エジプトから出国することによって得られた自由を保持するためには、否定命令を遵守することが不可欠の条件になります。この自由をイエスは愛で包み込むのです。フロマートカは、こう説明します。
〈上述したように、モーセの律法が鋳直されて、イエスの福音になった。しかしまた、イエスは律法を廃止するためにではなく、満たすためにやってきたということも述べた。シナイの律法は、今日でもキリスト教会において道の指標、絶えざる神の導き、あらゆる命の導きの証拠としてとどまっている。イエスは、神の律法は本質的に神への愛と隣人への愛であると語った。使徒は、律法を満たすのは愛であると宣言した。両方の解釈とも、旧約の忠実な奉仕者たちがイエス・キリストの到来のはるか以前に力強く表現していたことと一致する。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じる これらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」(申命記6章4‐9節)。この言葉が記されている章をすべて読んでみよう。そして旧約の深いところでいかに新約の気配が感じられるかを理解しよう。私たちにとってもシナイの法は、永遠の道標であり、私たちを恵みによってこの世の生のもつれや混乱から導きだしてくれる手であり続ける。その手は優しいだけでなく、私たちがその手をふりはらって不安定で不従順で堕落した心の渇望に迷いこもうとするときに、私たちの手を強く握ってひきとめてくれる確かな手である。〉(フロマートカ、前掲書300~301頁)
信仰とは、神の掟に徹底的に従うことです。それですから、人間が他者に自分の信仰心が強いように見せることは、キリスト教信仰とは無縁です。信仰は、他者がどう評価するかではなく、自分とイエス・キリストの個人的関係によってのみ成立するからです。神の言葉は、人間の目には見えませんが、キリスト教徒に力を与えるのです。
〈信徒の生活は、目に見えない神の言葉と、現臨するイエス・キリストの自に見えない手によって作られている。その主な印は、神の憐れみのあらゆる証拠を感謝を持って受けとめることである。そしてまさにこの感謝の気持ちを持つことで、偽りの宗教に対する嫌悪感も芽生える。私たちは、キリスト教徒は絶えず口から神の言葉を唱えなければならないとか、一歩あゆむごとに敬虔な言葉を吐かなければならないというような、要するにキリスト教徒の生活は敬虔さというたくさんのバッジで飾られるべきであるという見解に警告する。キリスト教徒の生活は、宗教の訓練ではない。キリスト教徒の生活とは、偽の言葉や表面的な敬虔さによって神の言葉の神聖さが汚されることを恐れる内面的真剣さの中で導かれる生活である。十戒の「わたしのほかに神があってはならな い」の掟のあとには、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」が続く。聖書的な敬虔さは、何ものにも陶酔しない冷静さと慎ましい誠実さによって特徴づけられる。〉(前掲書301頁)
敬虔な素振りが信仰を遠ざけるというフロマートカの指摘はとても重要です。