第179回 「終末論(1-1)」
今回から終末論に入ります。この終末論で、長かったこの連載も終わりになります。
ギリシア語で、テロスという言葉があります。「終わり」であるとともに「目的」と「完成」を意味する言葉です。終末論の特徴は、このテロスという言葉に端的に示されています。終わりの出来事に関するキリスト教的解釈が終末論なのです。キリスト教徒にとって、終わりの出来事とは、再臨したキリストによって最後の審判が行われることです。そして、キリスト教徒は、最後の審判で自分は救われると考えています。
いずれにせよ、終末論は、円環ではなく、直線的な時間理解が前提となります。そして、時間には始点と終点があります。こういう直線的な時間が、私たち日本人には異質なものなので、わかり難いです。そのために、終末論を「ヨハネの黙示録」と結びつけて理解する傾向が強いです。確かに「ヨハネの黙示録」は、この世の終わりについて扱っています。しかし、黙示が終末を意味するわけではありません。この点で、マクグラスの以下の指摘が重要です。
〈「黙示的」という言葉(由来は「覆いを取る」、「暴露」、「啓示」を意味するギリシア語apocalypsisである)は、今日ではある特定の著作の様式・分野を指すのに用いられる。これはキリストの前後およそ各二百年ずつにわたる期間にユダヤ教の一部に見られるものである。この四百年にわたる期間に、ユダヤ教の一部から特色ある世界観と様式を持つ文書が生み出された。黙示文書は、通常は世界の事柄への神の介入の切迫の待望に焦点を当てている。この神の介入において、神の民は解放され、敵は滅ぼされ、現在の世界秩序が捨てられて回復された被造世界によって取って代わられるとされる。
しばしば幻や夢の役割が非常に強調される。幻や夢を通して著者たちは神の秘められた計画を知るのである。それゆえに黙示文書は「最後の事物」に関心を持ってはいるものの、「黙示的」という言葉は神学の型や文書の様式を指すのに使われるのがよいということが明らかとなろう。〉(アリスター・E.マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、752頁)
黙示というのは、「隠されていた事柄を明らかにする」という文学形態に対する名称で、それが直ちにこの世の終わりを示すわけではありません。
キリスト教が考える終末論は、現在の瞬間においてもあります。終末が既に始まっていることは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というイエスの言葉に端的に表れています。「マタイによる福音書」から、関連箇所を引用しておきます。
〈イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。〉(「マタイによる福音書」4章12~17節)
洗礼者ヨハネの逮捕は、29年頃のことと考えられています。ヨハネも悔い改めを説いた、神の終末論を伝える使者です。ヨハネの逮捕をきっかけに、イエスは新たな行動を開始しました。ヨハネは、「悔い改め」を強調しました。これに対してイエスは「天の国が近づいた」ことを強調します。イエスの理解では、終末は既に始まっているのです。
「天の国」を神の国と言い換えることもできます。終末によって到来する「神の国」とは、どのようなものなのでしょうか。
〈また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」〉(「マルコによる福音書」4章26~32節)
まず、イエスは、たとえで「土はひとりでに実を結ばせる」と言っています。これは、人間の関与と関係なく「神の国」が到来するという意味です。さらにイエスは、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」と言います。これが終末のときに起きる最後の審判です。そのときに現在は秘密とされている「神の国」も具体的に姿を現すことになります。ここで注意するのは、「神の国」が、からし種にたとえられているのではないということです。からし種そのものではなく、からし種が成長していく出来事が「神の国」にたとえられています。「神の国」は、生成概念なのです。
終末が既に到来しているが、まだ成就していないことについて、東ドイツのフンボルト(ベルリン)大学プロテスタント神学部の教授を務めたハンフリート・ミューラーは、こう述べています。
〈主がその確言された通りに再来し給うという信仰、したがって、約束は信仰において成就しているが観ることにおける成就がなお約束されているという確実性、要するにわれわれは同時に成就と約束に生きているという認識――これは、教会史においては、われわれが罪人でありまた同時に義人であるという認識と同じ位に、堅持されることの少なかったものである。
この二つの認識は、互いに深く結びついている。われわれは、すでに来たり給うた主を、なお待ち望んでいる。 それと同じように、われわれは、すでに起こった不虔者の義認の啓示を、なお待ち望んでいるのである。成就とは、隠されて生起したことの告知という福音であり、約束とは、唯一無二の出来事として明らかにされるであろうことについての使信である。「神は啓示し給うことをなし給うであろう」ということが、旧約聖書の約束であった。それと同じように、「神はなし給うたことを啓示し給うであろう」ということが、新約聖書の約束なのである。それゆえ、神が約束し給うたことを自分でなそうとすることは、約束の成就に対する不信仰である。それは、神が示し給うことを待たずにそれを自分で見ようとすることが、成就の約束に対する不信仰であるのと同様である。〉(H・ミューラー[雨宮栄一/森本あんり訳]『福音主義神学概説』日本キリスト教団出版局、1987年、361頁)
キリスト教徒にとって、終末は、救済の時です。イエス・キリストの到来によって、救済はすでに約束されているのです。しかし、それはまだ成就されていません。人間の力で、終末、すなわち救済の時を早めることはできません。それだから、キリスト教徒は、「急ぎつつ、待つ」という態度をとらなくてはならないのです。