曇り空の音楽 アビー・ロードは晴れているか 吉田篤弘 atsuhiro yoshida

1 …… 曇り空の「アビイ・ロード」

 1969年8月8日金曜日。その日、ロンドンの空は晴れていた。
 少なくとも、セント・ジョンズ・ウッドのあたりは雲ひとつない晴天で、そのときの真っ青な空をビートルズのアルバム「アビイ・ロード」のジャケット写真で確認できる。
 時刻は午前十一時半をまわったころであったろうか。あまりに天気がよかったので、「裸足で歩いた」とポール・マッカートニーは後になってそのときの様子を話している。
 横断歩道を渡っていく四人のメンバーのうち、ポール・マッカートニーだけが裸足であり、初めてそのジャケット写真を目にしたとき、この裸足の異様さと画面の上部にひろがる空の青さが、ことのほか印象にのこった。
 しかし、ぼくの思うビートルズの音楽はいつでも「曇り空の音楽」で、頭の上に青空がひろがっているイメージがない。それゆえ、「アビイ・ロード」のジャケットの青空を見るたび、はたしてこれは本物の青空なのだろうかと疑わしく思っていた。
 本当は曇っていたのに写真を修正して雲を消し、あたかも雲ひとつない青空であるかのように仕立てているのではないか。そう思ってまじまじと見なおすと、どういうものか、いかにも修正された青空に見えてくるのだ。


 いま、ぼくの手もとにイギリスで発売された「アビイ・ロード」のオリジナル・レコード盤があり、そのジャケット写真の青空にはうっすらと雲がかかっている──と、こう書くと、オリジナル盤は「空が曇っていた」と間違った認識を与えてしまいかねないので、急いで付け加えると、ぼくが知る限り──少なくともイギリス盤については──この手もとにある一枚を除いて、雲が浮かんでいる「アビイ・ロード」は見たことがない。
 「アビイ・ロード」はほとんど世界中の国々で発売されたが、世界中すべての「アビイ・ロード」が雲ひとつない青空で彩られ、雲のあるジャケットは、断言こそ出来ないものの、まずは存在していないものと思われる。
 しかし、ただ一枚だけこうして自分の手もとにあり、たまたま手に入れてから、これは一体なんだろうかと考えてきた。
 見れば見るほど、あきらかに本物の雲が浮かんでいるのだ。それも、とってつけたような雲ではなく、雲の向こうに青空がぼんやりと透けて見えるきわめて自然なものである。画面上部の両サイドには木立ちが写っているが、その樹々の向こうに雲が見えている感じも、ごく自然でまったく作為が感じられない。絵に描いたような雲ではなく、仔細に点検しても、本物の雲にしか見えないのだ。
 しかし、一体どうしてこの一枚だけに雲があるのか──。
 いや、答えはすでに分かっていて、このうっすらとした雲の正体は印刷ミスによるものと思われる。空以外の他のところには何ら問題がないので、偶然、青空の部分にだけインクがうまく載らなかったか、あるいは、刷り上がってまだインクが乾かないうちに、何らかの理由で表面がこすれてインクが剝げ落ちたものと考えられる。どちらかというと、後者の可能性の方がより高いが、偶然の賜物としては奇跡に近く、もし、雲ひとつない青空の方が正しいと知らなかったら、この、じつにリアルな雲の存在に何の疑いも持たなかったと思う。
 というか、印刷ミスであると分かっていても、「いや、これは本物の雲でしょう」と云いたくなってくる。そう思うたび、一瞬──いや、小一時間ほど、「あるいは、もしかして」と妄想を重ねてきた。
 その日、アビー・ロードの上空にはうっすらと雲がかかっていて、本当は雲ひとつない晴天ではなかったのだ。ジャケットに使われた写真の青空は修正されたものであり、しかし、どういうわけか修正する前の写真を使用したジャケットが、わずかながら発売されてしまった──という妄想である。


 「アビイ・ロード」といえば、もう一枚、「1C062-04243」というカタログ番号をもった盤がレコード棚の隅にある。ドイツ製のレコードで、1969年にプレスされたものと思われる。もちろん、こちらのジャケットの空は雲ひとつない晴天である。
 二十一世紀の現在、ビートルズのレコードについて云えば、いくつかの書籍やインターネット上の情報を通して、いま手にしているレコード盤がどのような出自を持っているのか、どの国で何年ごろにつくられた何番目のプレスであるか、その詳細を知ることが出来る。
 けれども、ぼくがこのレコードを手に入れたのは1986年のことで、そのころはまだ、たまたま手に入れた一枚のレコードに関する情報が、そう簡単には得られなかった。いまのように、あらゆる事物に関するデータを容易に手に入れられる生活に慣れてしまうと、そんな不便な時代があったことなど信じられないが──。
 ほんのわずかな少ない情報を頼りに一枚のレコードと対峙する時間は、あのときだけのものであったのだと、このごろそう思う。
 ただ、そうした時代にあっても、まことしやかに語られていたのは、ことビートルズのレコードに関しては、イギリス本国で最初にプレスされたオリジナル盤が「最も音が良い」という定説だった。この定説はいまでもある程度有効であり、ある程度更新されて、必ずしもそう断定は出来ないという意見を示す人もいる。
 これはつまり、定説の前提として、「最も音の良いビートルズのレコードは、どの国のいつの時代にプレスされたものか」という問題に端を発しており、こうしたことに探究心をたっぷり費やすことになってしまった人は、たまたま耳にしたレコード盤が思いのほかいい音で鳴り、それまで他のレコード盤で聴いていた同じ楽曲がまったく違って聴こえるという経験をしたからではないかと思う。
 かくいうぼくもそのひとりで、その昔、とあるレコード・コレクターのリスニング・ルームに招かれ──その人の専門はモーツァルトのさまざまな演奏家によるレコード・コレクションだったが──どういうわけか、棚に並んだクラシック・レコードの中にビートルズの「ラバー・ソウル」が紛れ込んでいたのである。ぼくが子供のころからビートルズを聴いてきたと話すと、その人は恭しくジャケットから盤を取り出し、念入りに針の調整をして、「これがまた、いい音なんです」と盤に針を落としたのだった。
 すると、いきなり心臓そのものをつかまれたような衝撃でA面の一曲目「Drive My Car」がふたつのスピーカーから飛び出してきた。
 そのとき、ターンテーブルの上で回っていたのがイギリス製のオリジナル盤で、おそらく再生装置のグレードがずば抜けていたのだと思うが、それにしても自分が普段聴いている日本製のレコード──これはたいてい「日本盤」と簡略して呼ばれている──とは、耳に届く音楽の存在感がまったく違っていた。音を聴いたというより、それまで経験したことのない鮮やかな光を全身に浴びたような体感だった。
 それからというもの、1960年代にイギリスで最初に出されたビートルズのレコードをひととおり集めてみようと中古レコード屋に足繁く通うようになった。
 その、通い出した始めのころの話である──。
 神戸の雑居ビルの二階にある中古レコード屋で、どことなく他の盤と手にしたときの趣が違う「アビイ・ロード」を見つけたのだった。
 ぼくはそのころ、そのレコード屋にばかり通い詰めていた。元町の高架下から海側へ出てしばらく歩くと、陽の当たらない路地の途中に異界につながる細長い裂け目のような入口がある。中に入ると否応なしに二階へつづく階段をのぼるよう誘われ、階段の壁にはその時代ならではのフライヤーが無数に貼ってあった。踊り場もなしに一直線にのぼりつめると、そこから先はドアを押したり引いたりすることもなく、いきなり店内に入り込む。
 そこへ通っていたのは真冬ばかりだったので、ドアがなかったのなら寒さの記憶があってもいいはずだが、いつ行っても所狭しと並べられたレコードが発する熱のようなものにあてられて、寒さについては正しい記憶がよみがえらない。
 一方、路地はいつでもめっぽう寒かった。海をなぶって吹いてくる風が路地になだれ込み、道幅の狭さに絞られて容赦なく襲いかかってきた。あのころの心もとない寒さはいまも体に染みついている。
 レコード屋の店内は四方の壁にびっしりとLP盤がディスプレイされ、窓のひとつもなく天井が低かった。一体、どこにスピーカーがあるのか、店内のどこにいても音の波動が体に伝わってくる。
 あるときは、オリー・ハルソールのギターが印象的なパトゥーのセカンド・アルバムがかかっていた。あるときは、ボビー・ウィットロックが。あるときは、サイモン・デュプリーが──。
 ぼくはこのレコード屋で通算200枚くらいレコードを買ったはずだが、まったく一枚もハズレがなかった。60年代、70年代のあまり知られていないけれど思い出しただけで顔がほころんでしまうようないいレコードはたいていこの店で買っている。店内にかかっていたのを、「これは何ですか」と訊ね、決して声高に語らない店長の説明を頼りに一枚、二枚と買っていった。
 といって、その当時、ぼくは神戸に住んでいたわけではない。週末になるとわざわざ東京から新幹線に乗って、ほとんどその店でレコードを買うために神戸まで出かけていった。
 その「アビイ・ロード」を見つけたとき、ぼくはまだイギリス・オリジナル盤の特徴や手ざわりといったものを熟知していたわけではなく、したがって、これは限りなく手にしたときの直感に近いものだったが、ジャケットの印刷が他の盤より繊細であるように感じられた。ジャケットそのものはかなり薄手なのだけれど、手にした実感のようなものが特別なものに触れている手応えがあった。(これぞ、探していたオリジナル盤ではないか)とそう思った。
 ぜひ、買いもとめて東京に持って帰りたい。しかし当時の自分には気安く買える値段ではなく、近くのコーヒー屋でひと休みしてしばらく気持ちを落ち着けた。そうしていったん手にしたレコードから距離を置いてみると、さっきまで手の中にあったレコード盤の総体──ジャケットの色つやや重さといったものが、じつに快いものとしてよみがえってきた。特に重さについては重くも軽くもない独特の存在感で、両手で持ったときの、物質としての魅力のようなものがあった。
 この魅力はミリョクと読むのではなく、自分の中では「ミリキ」と読みたい、いわば規格外の言葉である。
 その昔、そうしたデタラメな読み方をするおかしな人がいたのである。大阪の古本屋の店主で、客と茶飲み話をしているときに、「カフーのミリキは」というようなフレーズを何度も口にしていた。カフーが永井荷風のことであるのはすぐに見当がついたが、「ミリキ」の意味が分からず、そうした表題の作品があるのかと思っていた。
 ところが、何度かその古本屋に通ううち、別の作家のとある作品について、「あれは何かしれんミリキがある」と目を細めて口にしているのを目撃してしまった。さらに話を聞いていると、店主は直筆を「チョクヒツ」と云ったり、古本を「フルボン」などと称している。直接、店主と話したことがなかったので真意は分からないが、おそらく店主はわざと読み方を独特なものに変え、何か云いようのないものに出くわしたときに魅力を「ミリキ」に変換しているのだろうと察せられた。いまはもう、その店主はおろか古本屋ごと消えてしまったのだが、ぼくの中に「ミリキ」は刻印されて、こうしてときどき使いたくなる──。
 コーヒーを一杯飲む時間を経て、ふたたび二階のレコード屋に戻り、件の「アビイ・ロード」をいまいちど手に取ると、その重量にあらためて満足した。こうなったらもう仕方がない。こちらの限りなく軽くなった財布からなけなしの千円札数枚を取り出し、そのミリキをもった微妙な重さのレコード盤を手に入れた。レコードはその店のオリジナルの袋に入れられてこちらに手渡され、その三十センチ四方の袋を小脇に抱えてあてもなく冬の街を歩きまわった。どこかでもう一杯コーヒーを飲んでホテルの部屋に戻り、そのころぼくは三宮駅の真上にある〈ターミナル・ホテル〉に泊まるのが常だったので、窓の向こうにネオンのまたたきが見える部屋で、買ってきたばかりの「アビイ・ロード」を袋の中から出してきてゆっくり点検した。
 これはいまでもそうだけれど、レコードを買ってきたら、まずはジャケットを隅から隅まで眺め、そこに印刷されている文字があれば、ざっと目を通す。それからレコード盤をジャケットから取り出して、今度はレコード盤に貼られたレーベルに印刷された文字やら何やらをA面B面とも確かめる。そして、最後にレーベル面と音溝が終わるそのあいだのフラットな部分、溝の刻まれていないビニールのつるつるしたところ──その部分をレコードが好きな人たちは「ランアウト」と呼んでいる──に刻印された数字やアルファベットや記号といったものを右から左から光を当てて、ひととおり読み取っていく。
 このランアウトに刻まれたものは本で云うところの奥付に等しく、主にそのレコードのカタログ番号が打たれ、そのあとに本で云うところの初版や二版や三版といったデータを示す何らかのしるし──たいていは数字である──が刻まれている。これを確認することで、そのレコードがいつごろどのようにプレスされたものであるか、およそのところが分かるようになっているのだ。
 その「アビイ・ロード」は「1C062-04243」というカタログ番号のあとに「-1」という、本で云うところの初刷りを表す番号が両面とも打たれていた。それらの番号が示していたのは、このレコードがイギリスでプレスされたものではないということで、イギリス盤のファースト・プレスにはA面のランアウトに「YEX 749」、B面のランアウトには「YEX 750」というカタログ番号が打たれているはずたった。それにつづいてA面には「-2」、B面には「-1」と刻まれているのが最初につくられた盤であると何かで読んで知っていた。
 いまでは、そのとき手に入れた盤がドイツでつくられた「アビイ・ロード」であると分かっているが、そのときは、イギリスではないとしても、どの国でつくられたものか判然とせず、奇妙なことに、そのレコードにはジャケットにもレーベルにもMADE IN GERMANYといった表記が印刷されていなかった。
 シングル・ベッドがひとつあるだけの素っ気ないホテルの部屋で、どこの国からやって来たのか分からない「アビイ・ロード」を眺め、いまいちどジャケットの中をあらためてみると、レコード盤が収められた黒い紙製の袋とは別に何か青い薄紙のようなものが何枚か入れられているのに気づいた。取り出してみると、縦が30センチ、横が20センチほどの透かしの入った上質な薄紙で、ジャケットの奥に仕舞われていたので最初は気づかなかったが、数えてみると八枚が束ねられており、いずれもタイプライターで「アビイ・ロード」に収録された楽曲の歌詞がほぼ正確に打たれていた。おそらく、前所有者の手製の歌詞カードと思われ、そのざらっとした紙の質感と独特な青い色は、ついぞ日本では目にしたことのないものだった。道理で妙な重さになっていたはずである。
 知ってのとおり、「アビイ・ロード」には17曲が収録されており、全曲の歌詞をタイプライターで手打ちするのはそれなりの労力が必要だったろう。
 なぜ、そんなことをしたのか──。
 思えば、自分が親しんできた日本盤の「アビイ・ロード」にはあらかじめ歌詞カードが封入されていたので思い至らなかったのだが、この手製の歌詞カードのおかげで面白いことに気がついた。
 これはそのとき謎の一枚だったそのレコード盤がカタログ番号からドイツ盤であると判明し、さらにイギリス盤、アメリカ盤、フランス盤と、さまざまな国の「アビイ・ロード」を買い集めていったときに気づいたのだが、このレコードが1969年の秋から冬にかけて全世界のさまざまな国で発売されたとき、歌詞カードが付いていたのは、おそらく日本盤だけであったと思われる。
 ちなみに、「アビイ・ロード」発売の前年にリリースされた「ザ・ビートルズ」(ホワイト・アルバム)には全曲の歌詞が裏面に刷られた大型ポスターがイギリスをはじめとするいくつかの国の盤に封入されていた。その前年に発売された「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、ジャケットの裏面に全曲の歌詞が印刷されている。
 そうして考えてみると、「アビイ・ロード」に歌詞が印刷された付属物が付かなかったのはどうしてなのだろう。さらに云えば、リリースされた当時、日本以外の国のリスナーは、「アビイ・ロード」に収録されている楽曲の歌詞をどのようにして入手したのだろう。
 神戸で見つけたこのドイツ盤は1969年に発売されたファースト・プレスで、そうだと知ってみれば、ジャケットの中に仕舞われていたこの手製の歌詞カードはその青い紙の周辺の焼け具合からして発売当時につくられたものではないかと思われる。しかし、もしそうだとしたら、このレコードの前所有者──たぶんドイツ人かドイツでつくられたレコードが輸入されていた近隣のヨーロッパ諸国の住民である誰か──は、いかにしてこの歌詞を正確に知り得たのだろう。これはちょっとしたミステリーである。
 いずれにしても、いまのように歌詞をダウンロードできるサイトがあったわけでもなく、発売当初に「アビイ・ロード」の歌詞を正確に知り得ていたのは世界中でおそらく日本人だけだった。


 「アビイ・ロード」が発売された1969年の冬、ぼくはまだ七歳で、翌年、開催されることになる大阪万博のガイドブックを夢中になって読んでいた。しかし、ビートルズのレコードはまだ一枚も聴いていない。ビートルズを聴いたのは、それから三年後の1972年──十歳のときで、従姉妹から譲り受けた何枚かのシングル盤を、小さなスピーカーが付いたおんぼろのポータブル・レコード・プレイヤーで聴いたのだった。
 これは自分だけのまったくいい加減な記憶なのだが、この1972年とそれにつづく1973年の二年間は、当時住んでいた東京の片隅に最もやわらかい陽射しが降り注いだ二年間だった。ほかにどう云っていいか分からない。記憶の中のその二年間はいつでも頭の上が明るい曇り空で、夕方近くになると、雲が晴れてゆっくり陽が射してきたように思い出される。おだやかで何の不安もない本物のピースフルな陽射しだった。
 この曇り空の下、十歳のぼくは井の頭線・東松原駅近くにあった古本屋までひとりで歩いていき、その店先で売られていた音楽雑誌「ミュージック・ライフ」を一冊五十円で買ったのをきわめて鮮明に覚えている。何度か通って、何冊か買ったが、万博もとうに終わってビートルズに夢中になり始めていたぼくは、「ミュージック・ライフ」の巻頭グラビアに彼らが載っている号を少しずつ買い集めていた。
 とりわけ、よく覚えているのは1970年1月号で、表紙をひらいた最初のページとそれにつづく計三ページにビートルズの写真が掲載されていた。「久しぶりに、ロンドン直輸入のビートルズの写真が、到着しました」と記してあり、その三ページをぼくはその雑誌が新刊として発売された二年後の冬の午後に古本屋の店先で立ち読みしていたことになる。ちょうど夕方が近づいてきて、古本屋の上にたなびく雲の隙間からひらいたページに陽が射していた。奇しくも、写真の中のビートルズの四人にも陽が射していて、二年前のロンドンに射していた陽の光と、東京の片隅に射していた光が目の前で重なっていた。
 おかしな気分だった。おかしくて、少し悲しいような、それでいてとてもいい気分だった。迷わずぼくはその一冊を五十円で買い、家に帰ってから、繰り返しその三ページを飽かずに眺めた。
 とりわけ大事にしていたので、その「ミュージック・ライフ」はいまも本棚のどこかにあるはずだ──と記憶を辿るうち、「そういえば」と脳裡によぎるものがあった。あの写真の中のビートルズは、「アビイ・ロード」のジャケットの横断歩道を渡る四人と同じ格好をしていたのではないか?
 半日かけて本棚の奥からようやくその一冊──1970年1月号を見つけ出し、「さて、どうか」と表紙をめくってみると、はたしてそこに1969年8日8日の四人が写っていた。
 いま見ると、まさしく「アビイ・ロード」のジャケット撮影をしている現場のオフショットであるとすぐに分かる。とりわけトップページに掲載された一枚は、いままさに横断歩道を渡ろうとしている四人を正面から捉えためずらしいカットだった。
 記憶どおり、陽が射している。
 空が写っていないので、うっすらと雲がかっていたかどうかまでは分からないが、その日、アビー・ロードは間違いなく晴れていた。


 現在はインターネットの検索窓に「ABBEY ROAD 8 AUGUST 1969」と打ち込んで画像検索をすると、この日、アビー・ロードで撮影されたさまざまなアウト・カットが画面にあらわれる。件の三ページに掲載されていた写真もすべて見つかり、ジャケット写真そのものの別カットもあって、それらの写真を見る限り、やはりその日は快晴であったと分かる。
 それでも、いまのところたった一枚きりしかない曇り空の「アビイ・ロード」が、ぼくにはどうも居心地がいい。
 いまさら云うまでもないが、ビートルズの音楽はすでに半世紀を超える年月において、世界中の人々に聴き継がれてきた。間違いなくこの先も末長く聴き継がれる。それはすでに世界中が共有する音楽で、そこで共有されるオフィシャルな「アビイ・ロード」には雲ひとつない晴天がひろがっている。
 しかし、いま自分の手もとにある「アビイ・ロード」には雲がある。それは、たまたま手に入れたものでありながら、またとない象徴的なものでもあり、先に書いたとおり、ぼくが聴いてきたビートルズの楽曲はいつでも曇り空の下にあった。
 どうしてそう感じるのか──いつか解き明かしてみたいと長いあいだ考えてきた。というのも、自分はどうやらビートルズに限らず、およそあらゆる音楽に対して、それが「曇り空の音楽」であるか否か検分してきたように思うのだ。云い方を換えると、自分が心動かされる音楽はいずれも「曇り空の音楽」だった。
 考えてみたところで答えが出るものではないかもしれない。仮にその因果が解き明かされたとしても、あまりに個人的で、世の人々に有益な見解を示せるとも思えない。
 ただ、自分の聴いてきた音楽がレコードやコンパクト・ディスクといった物質と分かち難く存在していたこと、そのときどきの温度や湿度や天候や街の様子とひとつながりになっていたこと──それをいまここに書いておかないと、音楽はのこっても、そのまわりにあった曇り空の下のあれこれは消えてしまうような気がしてならない。
 もちろん、音楽はかけがえのないものだが、あの曇り空の下にあったものこそ、後世にのこしておきたいと思う。
Share
  • Facebook
  • Twitter
  • LINE

Profile

吉田篤弘(よしだあつひろ)

作家。1962年、東京都生まれ。
少年時代からレコードを買い集め、小説家としてのデビュー作『フィンガーボウルの話のつづき』では、ビートルズのホワイト・アルバムを題材にしている。主な著書に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『神様のいる街』『あること、ないこと』『おやすみ、東京』『おるもすと』などがある。