曇り空の音楽 アビー・ロードは晴れているか 吉田篤弘 atsuhiro yoshida

2 …… 世界はいつでも裏返せる

 どういうわけか、空が曇っているとレコード屋へ行きたくなる。
 レコードを買って、コーヒーが飲める店の隅の席に陣取り、買ったばかりのレコードを袋から取り出して、解説文を斜めに読んだり、ジャケットに印刷された曲名や演奏者のクレジットを指先でなぞりながら拾い読みしてゆく。
 湯気の立つコーヒーがテーブルに届くころには曇りだった空が雨となり、ああ、雨になってしまったのなら、当面、街へ出ても濡れてしまうだけだから、この居心地のいい店に腰を据えて、次に買いたいレコードのことや、これから聴いてみたい音楽のことを勉強しよう、と思う。
 それが木曜日のことであれば云うことはない。これは、こちらの勝手な憶測なので、およそあてにならないが、一週間の中で木曜日だけ街が閑散としているように思う。にもかかわらず、木曜日を定休日にしている店はさほど見受けられない。街に出て、店が休みばかりなのは拍子抜けで、それでは街にいる意味がない。それゆえ、木曜日はおあつらえ向きの曜日で、たとえば、曇り空の木曜日に渋谷を歩いていると、店は開いているけれど人が少ないので、(なんだか昔の渋谷みたいだ)と少しばかり感傷的な思いが募ってくる。
 さてしかし、感傷的になるのはいいことなのか──。
 これは答えの出ない問題のひとつかもしれない。
 いつからか「感傷的」とか「センチメンタル」といった言葉で要約される情緒が、イメージの株式相場において急落している。「感傷的」イコール「軟弱」と相場が決まり、街の中からより良いものを拾い上げる連中が真っ先に無視したのが「軟弱」だった。
 こうした風潮は音楽の現場──とりわけロックを聴いたりプレイしたりする現場において顕著で、ソフトよりハード、メジャーよりマイナー、舗装された道路ではなくワイルド・サイドを往くのをよしとするところがある。いつの時代にそうであったかという話ではなく、これはもう恒常的にそうであるように思う。
 しかし、いつの時代にあっても、そうして硬派を気取るリスナーやプレイヤーの多くは、自分の軟弱な部分を隠すためにメジャーなものを封印しているように見えた。つまり、どっちもどっちで、結局のところ、メジャーとマイナーのどちらを支持しようと同じことではないかと──自信はないのだが──そう思っていた。


 最初に自らの意思で手に入れたビートルズの7インチシングルは「キャント・バイ・ミー・ラヴ」と「ユー・キャント・ドゥ・ザット」のカップリング盤だった。いま気づいたが、この二曲のタイトルはじつに示唆的で、あろうことか、二曲とも「キャント」なのである。自分がのちのちレコードを探求していくことになるのを見透かされたかのように、「決してお金では買えない」「君には出来ない」と、最初から「キャント」の刻印を押されて窘められていたのだ。
 とはいえ、そのときぼくはまだ十歳で、日曜日の夕方に下北沢のパチンコ屋でこのシングル盤を手に入れたのだった。
 日曜日になると父は世田谷代田のアパートからひと駅歩いてパチンコをしに出かけた。「一緒に行くか」と訊かれて、ときどき黙ってついていった。父はそれなりの腕を持っていたのか、あるいは、ありったけの運を日曜日の午後に使い果たしていたのか、いずれにしても、毎回、しっかりと成果を出し、帰りぎわに結構な数の景品と交換していた。
「何か好きなものと交換していいぞ」
 父にそう云われて、景品交換所に並ぶものを物色していたら、回転式の陳列ラックにシングル盤のレコードが何枚か差してあった。そこに「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を見つけたのだ。エメラルド色のジャケットで、ビートルズの四人が襟なしのおかしなスーツを着てこちらを見ていた。

 はじめて自分で手に入れたのはエメラルド色の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」だったが、はじめてビートルズを聴いたのは青いトランジスタ・ラジオから聴こえてきた「カム・トゥゲザー」だった。ただ、ぼくはそれをビートルズの曲として聴いたのではない。夜遅くに放送されていたラジオ番組のテーマ・ソングで、ぼくはそれを枕の下に置いたラジオで寝入りばなに夢うつつで聴いたように思う。
 ラジオは小遣いを貯めて買ったチープな青いプラスティック製で、タバコの箱をひとまわり大きくしたくらいのサイズだった。そんな手のひらに載るくらい小さなものから、さまざまな声と音楽と情報が、二十四時間、無料で流れ出てきた。AM専用だったので受信できる放送局は限られていたし音も芳しくなかったが、枕の下に隠し入れて、ときには朝方まで聴いていた。
 それが枕ごしであったからなのか、それとも暗くした部屋で親に隠れて聴いていたからなのか、とにかくそのとき耳にした「カム・トゥゲザー」の奇妙な響きはどことなく秘密めいていた。まったく聴いたことのない謎の音楽であり、それでいて、童謡にも似た耳馴染みの良さを併せ持っていた。

 それからほどなくして、ある日突然、ひとまわり歳上のいとこが、「もう聴かないから」と、ビートルズのシングル盤をごっそり譲ってくれたのである。
 つまり、先に書いたとおり、「最初に自らの意思で手に入れた」のはエメラルド色の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」だったが、それ以前に、たまたま二十枚ほどのシングル盤がすでに手もとにあったのだ。
 耳にしたのは、ラジオから聴こえてきた「カム・トゥゲザー」が最初ということになる。しかし、なにしろ正体不明のまま聴いていたので、はっきり意識してビートルズを聴いたのは、その二十枚ほどのシングル盤が最初だった。

 まず最初にシングル盤があったのだ。
 さらに云うと、このときから半世紀にわたってレコードを買って聴いてきたことになるが、結局、行き着いた先もシングル盤だった。
 レコードはシングル盤がいちばん面白い。文学的ですらある。
 それもA面とB面のそれぞれに一曲ずつ収録されている簡潔なものがいい。一曲ずつの潔さが、その盤のAサイドとBサイドの性格を明快にしてくれる。
 なにより、レコードというものに備わった最大の物質的特性が、この「二つの面」で、とりわけシングル盤はヒット・ソングを目指すためにつくられていた側面があるので、どちらのサイドが表であるかが重要だった。当然のようにA面が表で、必然的にB面は裏ということになり、そうした順列のようなものが生まれたのが面白さが倍増された要因であったかもしれない。
 こうした物理的事情から生まれた「A面とB面」、「表と裏」という概念が音楽をつくる側にも影響を及ぼした。
 これは時代が下るほどにより明らかになっていくように思われるが、ビートルズのシングル盤のいくつかは初期の段階ですでにA面とB面の使い分け──方向性の違いが打ち出されていた。その定義を安易な言葉で決めつけることは避けるべきだし、そもそもすべてのシングル盤にあてはまるわけでもない。が、あくまで感覚的な印象として云えば、A面には確実にヒットするであろう普遍性をもった楽曲が配され、B面にはいささか冒険的かつ趣味的な要素をもった攻めた楽曲が配されることがあった。
 たとえば、いとこから譲り受けたシングル盤の中から挙げてみると、A面が「レット・イット・ビー」で、B面が「ユー・ノウ・マイ・ネーム」のカップリングが代表的な例だ。あるいは、A面が「ヘイ・ジュード」で、B面が「レボリューション」のカップリングもそれに当たるだろうか。他にも「アイム・ダウン」、「レイン」、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、「オールド・ブラウン・シュー」といったB面曲もそうだろう。楽曲のクオリティーはいずれもAクラスもしくは特Aクラスと云いたいものばかりだが、ヒット・ソングにもとめられる大衆性、普遍性を鑑みると、これらの楽曲は──少なくとも当時としては──尖っていたり前衛的なものとして聴こえたに違いない。
 このA面とB面の方向性の違いが時代と共に確実なものになっていくに従い、シングル盤はリスナーにひとつの──しかし、かなり大きな──選択を問うことになった。すなわち、A面とB面のどちらが自分の好みであるかという問題である。
 同じ「キャント」でも、A面の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」か、B面の「ユー・キャント・ドゥ・ザット」か、という二者択一で、このシングル盤においても先の使い分けはマイルドに機能していた。
 A面は4ビートのノリを内包し、セヴンス・コードを使ってややブルージーな旋律を基調にしている。が、冒頭とサビのタイトルが歌い上げられるパートは快活なメロディーでありながらコードはマイナーのみという複雑な感興に誘われる仕掛けがある。
 一方、B面もセヴンス・コードでテーマが進んで、サビでマイナー・コードを効かせるのは同じなのだが、イントロのギターリフの不穏な響きと全体を支配する気怠い空気が、「これぞB面」と云いたくなる独特なやさぐれ感を醸している。
 もちろん、十歳の子供に「どちらを選ぶのか」と選択を迫る者などいるはずもない。が、自分の部屋の中で──つまり自分しか聴く者のいない部屋の中の自然なふるまいとして、ぼくは「ユー・キャント・ドゥ・ザット」ばかりを聴いていた。「ユー・ノウ・マイ・ネーム」と「アイ・アム・ザ・ウォルラス」と「オールド・ブラウン・シュー」を繰り返し聴いていた。ただ単純にB面を好んでいた。B面というそのポジションそのものを好んでいたのかもしれない。
 誰に迫られたわけでもなく、そこに分かりやすい形で表と裏、AとBの二つの面を備えたものがあって、余計な理屈を考える前に自然とB面を選んでいた。
 その選択がいまだに尾を引いているのだろう。この半世紀というもの、A面をあとまわしにしてB面から探求する癖がついた。ただし、このB面志向はA面あってのもので、A面もまた愛聴することが前提であり、あくまで「どちらかと云えば」という話だ。
 これは先に書いた、ソフトよりハード、メジャーよりマイナー、舗装された道路ではなくワイルド・サイドを往くのをよしとした「軟弱」の封印に通ずるものがある。最終的には「どっちもどっち」に行き着くのだが、自分の端緒はB面にあったという話である。


 昭和の黎明期に刊行された『夏日夜話』という本に「撒水夫」なる仕事について書かれた一章があって、「さっすいふ」と読むのだろうか、その名のとおり水を撒く仕事であるらしい。
 昭和の──さて正確な年数をいまその小さな本のページをめくって調べてみると昭和九年とあり、これはぼくの母親が生まれた年で、母は東京麻布の生まれだったが、ものごころついた最初の記憶を訊いてみると、
「麻布十番の商店街を抜けて、お屋敷のある坂道をのぼって行くと、そのうち六本木の交差点に出て、〈誠志堂書店〉の看板が見えてきたのを覚えてる」
と目を閉じてそう云った。
 母は昔からそうした描写をするのが得意で、〈誠志堂書店〉の店先に立った少女時代の母の中に当然ぼくはまだ宿されていないのだけれど、自分の記憶のように母の話に郷愁を感じてしまう。
 まだ舗装されていない交差点のやけに広く感じられる車道が土埃をたてて白くけむる様が見え、その埃を鎮めるためにひとりの男が交差点の端に立っている。男は往来の様子を見はからっては樽に張った水を杓子ですくって道へ放つ。この仕事が特に必要とされるのは夏のあいだで、ようするに撒かれた水によって土埃と暑さがおさまるのである──。
 父は子供のころから近所の寄席で下足番を買って出るような筋金入りの落語好きだったが、画家になりたかったという母はその話しぶりからして落語の世界から遠く離れている。ときどき妙に文学的で、場合によっては、息子にも理解できないような芸術家気質が発揮されることがあった。

 一九七二年のことだ──。
 母は父が何かの懸賞で当てたカセット・テープ・レコーダーを愛用していた。ラジオ受信機が付いていて、ぼくが枕ごしに深夜放送を聴いていた隣の部屋で、母もまた深夜のラジオ番組を聴いては気に入った曲をテープに録音していた。録音した曲は翌日の夕食のあとに何度もリピートして聴かせられたのだが、母が気に入ったいくつかの曲はいかにも特異だった。
 とりわけ忘れられないのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「SOME KINDA LOVE」といういかにも妖しげな曲である。これはいま聴いても、B面的なアンダーグラウンド感覚に充ちた、かなり尖った曲で、このカッコいい変な曲を母が何度もリピートしては、「これはルー・リードの曲」と、作曲者にしてボーカリストの名前も正しくリピートしてみせた。
 おそらく母は「ルー・リード」という名前の響きに魅かれていたのだろう。こうした名前や言葉の響きにとらわれるのは間違いなく自分にも引き継がれているので、ぼくにもまたこの奇妙な曲と「ルー・リード」が完全に刷り込まれた。
 そのときまだ十歳になったばかりで、まだ「カム・トゥゲザー」に出会う前夜である。いとこからシングル盤を貰い受けるのはさらに先の話で、となると、このときの母によるリピートこそ、自分のB面志向を育んだレッスンだったのではないかと思う。
 ルー・リードのおかげで、あの奇天烈な「アイ・アム・ザ・ウォルラス」に最初から痺れ、ビートルズのシングルのB面に収録されたさまざまなおかしな曲に、裏面の愉しさとでも云うべきものを教えられることになった。


 ところで、日本で最初にリリースされたビートルズのシングル盤はA面が「抱きしめたい」I Want To Hold Your Handで、B面が「こいつ」This Boyというカップリングだった。このふたつの楽曲は、どちらもジョン・レノンが作ったもので、どちらも瑞々しい名曲ではあるけれど、それぞれに個性をもった曲で、ビートルズやジョン・レノンといった属性を取り除いたら、ずいぶんと趣の違う二曲ということになる。
 けれども、ここで云いたいのは、この二曲のうちどちらを選ぶかという話ではなく──ぼくはやはりB面を選びますが──この趣の違う二曲が背中合わせになっているということ、なおかつ、背中合わせでひとつになっているという事実である。
 これこそシングル盤というものが成し得た物理的かつ文学的な面白さで、「I Want To Hold Your Hand」という曲の裏側に「This Boy」がもれなく付いているのである。このシングル盤で「I Want To Hold Your Hand」を聴けば、その裏側で「This Boy」もまた45回転でまわっている──。
 まだ日本にビートルズのレコードがこのシングル一枚だけしかなかったとき──そういうときがあったのだ──多くの日本人がこの一枚を何度も繰り返し聴いたことだろう。その時代のリスナーには「I Want To Hold Your Hand」と「This Boy」は分かち難いものとしてインプットされているに違いない。その後、別のメディアで──たとえばデジタル配信で「I Want To Hold Your Hand」を聴いたとしても、その裏側に「This Boy」がひそんでいる感覚が呼び覚まされるのではないか。

 この背中合わせの感覚を頭の中だけで味わうのではなく、十歳にして実際に手で触れて表にしたり裏に返したりして覚えたのだから、この表裏一体の妙がその後の人生に影響を与えないはずがない。

 どんなことにも表と裏がある。A面とB面がある。そこに優劣はなく、その証拠に、裏を楽しんでいるときは表が裏になっている。それを理屈ではなく一枚のシングル盤を聴くことで体が覚えた。
 そう思えば、いまこちらに見えているこの世のあれこれは、すべて裏返すことが出来るのだと詩を書く前にレコードで学んだ。
 世界はいつでも裏返せる。
 みんなが楽しんでいるA面もいいけれど、裏返したB面に自分を魅了する別の何かがあるかもしれない。
 というか、あるのだ。
 世界を一周して、世界に退屈して絶望したとしても、それはまだA面を見てまわっただけに過ぎない。
 いや、何も世界一周などする必要もない。
 そのあたりに転がっている小石でさえ、われわれが見ているのはひとつのサイドなのだ。小石よりさらに小さくて目に見えないようなもの──見えないけれど頭の中にある思いや考えや概念といったものにも、かならず裏面がある。というより、裏側があるからこそ表側なるものが成立しているのだ。


 ときどき、短い路線を往復する二両編成の電車に乗って、その終点駅である下高井戸へ行くことがある。それはやはり曇り空の日であることが多いかもしれないが、駅をおりて街をひとまわりしても、下高井戸にはもう行きつけのレコード屋がない。
 ひとまわりして少し疲れて空腹を覚え、そういうときは迷わずハンバーガー屋にはいる。
 シングル盤の面白さに開眼した十歳のとき、はじめてハンバーガーなるものを食べた。ハンバーガーのチェーン店が自分の住む街にあらわれる前の話で、そんな食べ物があること自体知らなかったが、下高井戸の「開かずの踏切」の近くに、ある日、ハンバーガー・ショップがオープンしたのである。たしか店内でも食べられるようになっていたように思うが、コの字形かU字形のカウンターがひとつあるだけの小さな店だった。いずれにしても、店の中で食べた記憶はなく、最初は母がおみやげとして買ってきた。
「ハンバーガーだって」
 母はそう云って、紙袋の中から銀紙にくるまれたそれを取り出した。銀紙は光沢を抑えたやわらかめの紙質で、赤、青、白とアメリカの国旗をイメージした柄が印刷されていた。
 ひらいた銀紙の中はまだ温かく、いま思うと、しっかりハンバーガー用のバンズを使った本格的なものだった。中に挟まっていたパティの香ばしい焦げ具合や、炒めた玉ねぎの加減も申し分ないもので、ひと口食べて、あまりの美味しさに言葉が出なかった。
 おそらく母も同じ思いだったのだろう。その三日後にまた買ってきた。さらにその三日後にもまた買ってきた。
 そして、その三日後に下高井戸へ出かけていく母にぼくも付いて行った。出かけた先は駅からほど近い病院で、そこに母の母──祖母が入院していた。
 祖母自身は知らなかったと思うが、母はすでに医者から宣告を受けて、祖母が元気に退院することはないと知っていたと思う。ぼくは知らなかった。ただ、病院の帰り道に母がひとことも口をきかないのを不可解に思っていた。母はどちらかというとお喋りな人で、ともすれば、沈黙に耐えかねて延々と喋りつづけることがある。
 あるいは、母はぼくが一緒にいることを忘れてしまったのではないかと、うつむいて歩く母の後ろ姿を見て思った。母はおそらく三日前もこの道をうつむいて歩いたのだろう。その三日前も、さらにその三日前も、そうだったのではないか。
 線路ぎわの道で、すぐ横を急行電車がけたたましく通り過ぎて行った。突き当たりを右に曲がると細い路地があり、路地を抜けると賑やかな商店街に出る。
 「ハンバーガー」と母は急に我に返ったように商店街に出るなりそう云った。路地から商店街へ出たすぐそこにその店があった。看板が出ていたはずだが、それがどんな看板で、なんという屋号であったか思い出せない。店内でパティを焼いている男の人がいたはずだが、どんな年恰好のどんな顔をした人であったか思い出せない。
 おそらく、「持ち帰りで」と頼んだはずだが、どのくらいの時間待たされたのか、それも店の外で待っていたのか、それとも店内のカウンター席に座って待っていたのか、そこのところも記憶にない。
 ただひとつだけ覚えているのは、店の中に音楽が流れていたことだ。日本人が日本語で歌っているものではなく、歌詞は外国語で、なにより結構な音量で鳴っていたのが印象的だった。その音量だけがいまでも耳の奥からよみがえり、そのあとハンバーガーの包みを抱えて電車に乗って帰ったはずだが、どんなふうに家路を辿り、母がどんな顔をしてハンバーガーを食べていたか、そうしたことはまるで覚えていない。
 ただ、それからも母は何度かハンバーガーを買ってきて、ある日、食べながらであったか、食べたあとであったか、愛用のカセット・テープ・レコーダーを食卓の上に置いてテープを回し始めた。そうは云わなかったが、たぶん、前日の夜中にラジオでかかっていたのを録音したものだろう。
「これね。ビートルズの『レット・イット・ビー』という曲」
 母はそう云って、レコーダーの音量を上げてみせた。
「途中からだけど、ここのところが聴きたくて」
 そのときのぼくには母が何を云っているのかさっぱり分らなかった。「レット・イット・ビー」という曲名さえ知らなかったのだから、いとこからシングル盤を譲ってもらう前のことだ。
 もちろん、いまなら何のことかわかる。母が云った「ここのところ」とは間奏パートのことで、「レット・イット・ビー」には印象的な間奏があって、そのフレーズもさることながら、ギターによるものなのかオルガンによるものなのか一聴しただけでは判別できないその音色に妙味がある。母はフレーズのみならずその音色を「いい音」と絶賛し、あっという間に終わってしまう短い間奏を、テープを巻き戻しては何度も聴いていた。
 ちなみに、「レット・イット・ビー」にはシングルに収録されたバージョンとアルバムに収録されたバージョンの二種類あり、母が感銘を受けたのはシングル・バージョンの方である。アルバム・バージョンは間奏のソロがディストーションを効かせたギターによるものとすぐに分かり、これはこれで素晴らしいプレイではあるけれど、ぼくもやはりシングル・バージョン派で、これもまた母のリピート学習による刷り込みのせいだろう。
 あとになって母から聞いた話では、母はあの下高井戸のハンバーガー屋ではじめて「レット・イット・ビー」を聴いたのだという。大音量で店内に流れていて、「間奏のところが胸に響いてどんなによかったか」といつもの調子で話すのを聞きながら、ぼくは黙ってうつむいて歩く母の後ろ姿を思い出していた。
 母にはB面の愉しみを仕込まれたことばかりが先立つが、裏を返せば、このとおり母にもA面に心を奪われた日があったのである。
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Profile

吉田篤弘(よしだあつひろ)

作家。1962年、東京都生まれ。
少年時代からレコードを買い集め、小説家としてのデビュー作『フィンガーボウルの話のつづき』では、ビートルズのホワイト・アルバムを題材にしている。主な著書に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『神様のいる街』『あること、ないこと』『おやすみ、東京』『おるもすと』などがある。