曇り空の音楽 アビー・ロードは晴れているか 吉田篤弘 atsuhiro yoshida

3 …… 「Revolver」のほつれ

 いつからか、それがそこにあることが当たり前になってしまって、最初に、それとどのように出合ったのかが思い出せない。
 LPレコードについて書こうとすると、そんな壁に突き当たってしまう。しきりに記憶をたどってみても、いつどこで、どのように、あの三十センチ四方のジャケットを手にしたのか、その最初のところが思い出せない。
 ただ、最初に買ったビートルズのLPレコードは「Revolver(リボルバー)」だった。それは間違いない。それは、いまに至る自分というものを考える上で象徴的なことだった。

 どうして「Revolver」だったのかと思い返してみると、まずはそのタイトルの響きがよかった。次に、モノクロのイラストと写真によるコラージュが施されたジャッケットに魅かれていた。そんな言葉はまだこの世になかったけれど、「ジャケ買い」と云っていい。
 一九七三年、十一歳のときである。
 ジャケットに魅かれて手に取るというのは、すでに図書館や書店で本を選ぶときに経験していた。そうして手にした本の筆頭は岩波少年文庫の『ガリヴァー旅行記』と『不思議の国のアリス』で、この二冊には、銅版画によるクラシックなイラストが数多く挿入されていた。本を収める函にもイラストがあしらわれ、そのモノクロームで描かれた緻密な絵が、「この本の中には、とても面白いものが詰まっています」と約束してくれるようだった。
 そうした下地があっての「Revolver」だった。
 本を選んでいたことの延長として、「Revolver」のジャケット・デザインを選んだ。そこに何か「面白いものが詰まっている」と予感したのである。
 その予感は大当たりで、予想以上にバラエティに富んだ音楽が、楽しげに、悲しげに、なおかつシュールな香りをともなって並んでいた。本で云えば、スタイリッシュな短編集のようなものだった。
 と、こんなふうに「Revolver」というLPレコードを、自分の個人的記憶からひもといていくことがこの文章の目的のひとつなのだが、もうひとつ、ここに書いておきたいのは、十一歳で最初に買ったLPレコードが「Revolver」であった場合、その後の人生がどのようになっていくかという話である。


 「さて、これから何かつくろう」というとき──たとえば、こうして文章を書いて、一冊の本をつくろうと目論んでいるとき、その一冊を仮に「作品」と呼んでみる。
 その際に、その「作品」の大きさ、サイズ、スケール感といったものが、自分の頭の中でどのくらいのものになっているだろうかと考える。それはやはり、本の内容によって変わってくる、と答えたいところだが、じつは、自分の中に「作品」というものをイメージするときの標準的サイズがある。
 そして、あきらかにそうであると断定はできないとしても、かなりの確率で、自分がいま感じている「作品」というもののスケール感、サイズ感は、「Revolver」によって決定づけられたと思われる。

 もとをたどれば、「Revolver」以前に、まずは書物というものに出合った。本のサイズや本が持つ重さや質感といったものを、「作品」と呼ばれるものとして体で感じとった最初だった。
 手に取って、さわったり、ページをめくったりして、その内容を咀嚼していくことを楽しんだ。
 もちろん、そのときは、「作品とは何か」といった難しいことは考えていない。ただ、いま思うと、子供であった自分は、そこからどのようにして、「作品」というものの概念や、そのあり方、その姿かたちを理解していったのだろう──。

 子供のころに慣れ親しんだものを思い出してみると、自分たちの世代はテレビが普及していく時代に重なっていたので、テレビ・アニメや特撮の怪獣ドラマといったものが、まず思い浮かぶ。
 ただ、それらは一回の放送が三十分ほどで、それで完結するのではなく、何十回にもわたって続いていくものとして認識していた。
 つまり、自分の手のひらの上に載せて、その「作品」がここにこうしてあると体感できるものではなかった。そうしたフィジカルに訴えてくる最初の洗礼が書物で、それからほどなくして、LPレコードに出合った。
 たまたま、書物というものを経たことで、「作品」が「始まり」と「終わり」を持った物語のようなものとして頭にインプットされた。そこにはさまざまな要素が詰め込まれていて、たとえば、一枚の板チョコを食べつづけて、ずっと同じ味がつづくのではなく、遠足のときに持っていく菓子のように、手ごろな大きさの袋の中に、板チョコとキャラメルとガムとスナック菓子とラムネ菓子が少しずつ入っている。本はそれによく似ていた。
 その楽しさは表紙やジャケットにもあらわれていたが、それ以上に、その中身に触れること──本で云えば、中身を読むことで、より色々な味わいが得られ、そんなおかしなアレコレが手のひらに載るくらい小さなパッケージに収まっているものを「作品」と呼ぶのだと、ひとまずはそう理解した。
 これは、絵画や彫刻作品といった美術の領域にあるものに触れたときにも感じたが、それらはいくつかの例外を除いて、たいてい、「小さなもの」に落とし込んであった。実際の風景が壮大なものであっても、その風景を描いた絵画は、一枚の画布に閉じ込めるようにしてコンパクトに描かれていた。
 繰り返すが、例外は多々あり、たとえば銅像や宗教絵画などは、原寸や原寸よりも大きなサイズで表現されることがある。が、子供のころに覚えた美術絵画は、まだリアルサイズの驚きには至っておらず、両手をひろげたくらいのキャンバスに、途方もない広大な世界が切り取られて、生々しくおさまっていた。
 どうやら、「作品」というものは、手のひらに載るような小さなパッケージにおさまっている──これが十歳までのあいだに備わった「作品」に対する考えだった。
 そして、それが「いや、必ずしもそうではない」と、より視野の広い概念を得る前に、一枚のLPレコードに出合ったのだ。
 「Revolver」である。


 「Revolver」には、アルバム一枚を通して感受されるひとつの香りのようものがあった。ところどころで、地虫が鳴いているような奇妙な音が聴こえてきたり、死や眠りといったものへの接近がほのめかされる。
 アルバムがひとつの香りによって統一されている印象があるのは、この時期のビートルズがまだライブ・バンドとして世界中を巡業していたため、レコーディングに費やされた時間が限られていたことと関係がある。
 これに加え、レコーディングの機材がまだ発展途上にあり、充分とは云えない機材で、その時点での限界を追求したことから、音の質感が、針が振り切れた状態で記録されている感触がある。どこかクールでありながら、このときだけの奇妙なエネルギーに充ちているのだ。
 発展途上とはいえ、機材の進化がサウンドにもたらした効果は絶大で、新しい機材が正しい使い方に縛られて固定観念を生む前に、彼らは玩具を見つけた子供のように自由にそれで遊んでいた。極端なリミッターやアンプの歪みやレズリー・スピーカーやダブル・トラックといったもので自在に遊び、さらには、テープの逆回転やループなどの原始的な手法を斬新なトリックとして更新してみせた。 
 こうした偶然の重なりと、アイドルを脱して、よりアーティスティックな作品を作りたいと願ったメンバーの思惑が、「Revolver」というタイトルとジャケットに結実した。そのジャケットはモノクロのアート作品としても完成度が高い。
 こうした傾向は前作の「Rubber Soul」ですでに予告されていて、「Rubber Soul」には「Revolver」とはまた違う統一されたテイストがある。レコーディングに費やされた時間は「Revolver」よりも短く、そのサウンドはスタジオ・ライブの一発録りを思わせる。それゆえ、またとない素晴らしいアルバムになっているのだが、作り手の「作品」に対する意識は、「Revolver」の方により強く感じられる。
 また、さまざまなジャンルの音楽を自分たちのものにしたという点においても、LPアルバムとしての魅力が、「Revolver」ではより明快になった。

 ぼくはこの「Revolver」というアルバムを、当時、いったい何度聴いたことだろう。聴くだけではなく、その三十センチ四方のアルバム・ジャケットを、音楽が流れているあいだ、ずっと飽かずに眺めていた。三十センチ四方なので、「手のひらに載る」というイメージからはやや離れてしまうが、書物が何枚もの紙を束ねた重さと重層性をもっているのに対し、LPレコードはたった一枚のビニールで出来た黒い円盤である。その薄さの中に、いくつもの要素が彩り豊かに詰めこまれているということが、物理的な常識を超えた驚きだった。
 もっとも、レコード盤には表面にも裏面にも気が遠くなるくらい細い線状の溝が刻まれていて、その指紋のような緻密さを思えば、盤の薄さは一面的なことでしかない。
 ただ、本のようにわかりやすく質と量が可視化されていないところに子供としては魔法めいたものを感じていた。
 その溝のディテールが、本における文字のように了解しやすいものではなかったので、そこへ針を落とすことで音が再生されるという、じつに原始的でありながら突拍子もない仕掛けに目を瞠った。
 再生されたものが、魔法のランプから立ちのぼる煙のように感じられたのだ。
 ランプは手のひらに載るほどのものではあるけれど、そこから立ちのぼるものは、質や量を具体的に示せない。形のないものであり、なおかつ、その形のない煙のようなものが、さまざまな情景や場面を浮かび上がらせる。さらには聴く者の情感をあおって、愉快な気分にさせたり、悲しい気分にさせたりする。
 聴いている時間はたしかにそこにあり、「Revolver」をA面の最初からB面の終わりまで聴くと、およそ三十五分かかる。現実の世界ではたしかに三十五分だが、音楽によって彩られた時間は時計でははかれない。
 これはきっと人間が発見した「小さなものから無限に等しいものを生み出す魔法」のひとつである。人類の進化は、この魔法をあらゆる角度から探求したバリエーションによって成り立っている。
 人はあるとき、宇宙の途方もなさに茫然となり、その茫然によって失ったものを、少しでも取り戻すために、小さなものに宇宙を封じ込める方法──すなわち、「アート」を発明した。
 だから、そうした「アート」の力を持ったものは、どんなものであれ「作品」と呼ばれるべきである。「Revolver」は間違いなくそのひとつで、そんなレコードを最初のLPとして手に入れたのだから、自分の作品づくりに影響を及ばさないわけがない。
 自分もまた「作品」と呼ばれるものをつくるようになり、そういう身になってみると、どうしてつくりつづけているのかという根源的な理由が、「Revolver」にあったのだと、いまになってよくわかる。


 そこから香り立つものが、ひとつの器には収まらない無限に等しいもので、それが感情を揺さぶったり、ここではないどこか別の場所へ連れ出してくれるものであったりする。
 が、その香りの源となっているのは一枚の薄いレコード盤で、それが現実の時間では、三十五分という長さに収められているということ、また、その薄いレコード盤が三十センチ四方の四角い紙製のジャケットに封入され、ジャケットには内容に即したものがデザインされているということ──。
 そうした一切が、ぼくにとっての「作品」のサイズにしてスケールになった。
 もし、別の何か──たとえば、子供のころに台所に立って料理に目覚めていたとしたら、直径三十センチのフライパンが自分の作り出すもののサイズやスケールになっていたかもしれない。
 あるいは、もし、水泳に夢中になっていたとすれば、自分の表現と挑戦の場のサイズとスケールは、最初に泳いだ五十メートルプールになっていたかもしれない。
 この仮定は、こうしていくつもの「もし」と「かもしれない」の空想を生むが、ぼくの場合は、それが「Revolver」という一枚のレコードだった。その一枚が「作品」というものをつくったり考えたりする起点になった。
 が、その起点から始まって、音楽をつくってレコードをリリースするようになったわけではない。音楽ではなく、本をつくったり書いたり、絵を描いたり、というようなことをしてきた。そして、そのときそのときの、それらの作品のパッケージは、いつでも手のひらに載るくらいのものを理想としてきた。
 実際に何センチ×何センチというようなことではなく、「作品」というものを仮想したり、予想したり、空想したり、妄想したりするときに、その容器にあたるものの大きさがLPレコードほどのものであるということだ。
 あくまで感覚的なことで、LPレコードが持っている器としてのサイズ感が、自分の「作品」のスケールになった。

 このごろは音楽をひとつのパッケージに落とし込む必要がなくなってきた。配信やアップロードといったものを利用すれば、LPレコードが両面で四十分ほどのプレイ時間を持っていることや、CDが一枚あたり七十分ほどの再生時間を持っていることとは、まったく別の概念で音楽を考えたり、つくったりできる。
 しかし、それがあまりに雲をつかむようなものなので、誰もがそうしているわけではなく、いまのところ、CDやレコードはもちろんのこと、カセットテープまでもが共存している状態で、配信だけが興隆して創作や表現そのものが根本から変わる事態にはなっていない。
 ただ、このまま半世紀が過ぎたら、もしかすると、限られた時間の中で音楽をつくるという概念自体が無くなっていくかもしれない。
 そうして時間の規定がなくなれば自由な表現が得られるのだろうが、その一方で、とりとめのないものを生み出しがちになっていく可能性がある。
 人が物事を把握する能力を考えてみると、パッケージのサイズがLPやシングルやCDといったものに規定されてしまったことが、偶然、ほどよいスケールとサイズを生み出したように思う。 
 ひとつの「作品」として音楽を聴くとき、レコードのA面とB面を聴き通す平均的な時間である三十五分──まさに「Revolver」を聴き通す時間である──くらいがちょうどいい。
 その「ちょうどいい」のスケール感は音楽に限らず、すべての「作品」と呼ばれるものにあり、いつからか「作品」に限らず、「商品」と呼ばれるものにまで波及してきた。


 レコードにはもうひとつ、「回る」という特徴があり、LPレコードは33回転という速度で回ることで正しく音楽を再生できる。
 この「33」という数字がどこから来たかは、研究すべき大きなテーマで、レコードは最初、SP盤が78回転で回り、シングル盤が45回転で回っていた。この78から45を引くと33になるのだが、その速度がまた、ちょうどいいのである。速くもなければゆっくりでもなく、ちょうどよく音楽が回っている感じがする。
 SP盤もシングル盤も基本はひとつの面に一曲だけ収録されていたが、そのひとつの面に何曲もおさまっているということだけでもLP盤は驚異的で、これによって、「作品」としての「始まり」と「終わり」を感じさせる物語性を持ち込むことができるようになった。物語性は、もともとクラシック音楽がレコードの発明される以前から持ち合わせていたもので、端的に云うと、LP盤は演奏時間の長い交響曲を収録するために発明されたものだった。
 だから、ビートルズのようなロックやポピュラー音楽と呼ばれていたフィールドにLPのフォーマットが持ち込まれたとき、そのフォーマットにはすでに物語性があらかじめ染み付いていた。このフォーマットを使うのであれば、クラシックの交響曲や組曲のように、連続性や物語性の面白さを積極的に利用すべきだと賢明な音楽家たちは気づいていただろう。
 そうした中、おそらく、ロックのフィールドにおける最初のめざましい成果が「Revolver」であったと直感的にはそう思う。
 もう一枚、ブライアン・ウィルソンが格闘を重ねた挙句、当時、ついに発売に漕ぎ着けなかったビーチ・ボーイズの「Smile」という傑作があるが、どのアルバムが真のパイオニアであったかは、詳細にLPレコードの歴史を追ってみないことには本当のところはわからない。ジャズのフィールドに目を向ければ、LPを使ったLPならではの「作品」は数多く見つかるし、そこからイージー・リスニングのフィールドまで範囲をひろげれば、多くのLPが物語性をもっているのを発見することになる。
 ロック以外の分野ではあたりまえだったものを、クールにさりげなく遂行したのが「Revolver」だった。


 ところで、イギリス盤の「Revolver」は工場でレコードのプレスが開始されたその日、B面の最後の曲「Tomorrow Never Knows」を別のミックスに差し替えるという事件が起きた。すでにプレスが始まっているのに、その段階で音源を変更するというのは、かなりめずらしいことである。
 どうして差し替えたのかは諸説あるが、いずれにしろ、差し替える前のバージョンはボツとみなされたのだから、差し替え前にプレスされた盤は廃棄されて市場に出まわらないのが普通である。ところが、どういうわけか、このボツになった盤が差し替えられたものに混在して発売されてしまった。
 この「Revolver」はたった一日しかプレスされなかった盤として、コレクターのあいだでは有名なのだが、それなりの枚数がプレスされて出まわったのだろう、ひと昔前までは「秘中の秘」のような扱いだったが、いまは日本の中古レコード市場でも、容易に見つかる。
 これはおそらく、このプレスの存在がかつては知られていなくて、この二十年ほどのあいだにそういうものがあると騒がれたことで、たまたま持っていた人たちが売りに出したものと思われる。
 遅ればせながら、入手して聴いてみると、さて、これは本当に差し替える必要があったのだろうか、というくらいのわずかな違いでしかない。しいて云うと、ボツになったミックスの方が全体に荒々しい印象で、この曲の真髄を伝えているような気がしないでもない。
 ちなみに、差し替えられたのはモノラル盤のみで、ステレオ盤の方は最初から別のミックスになっているため、問題なくそのままになった。
 そもそも、六〇年代に発売されたレコードを聴くようになって、最初に戸惑ったのは、一九六八年以前に発売されたLPレコードの多くがステレオ盤とモノラル盤の二種類あるということだった。ビートルズのLPレコードも一九六八年にリリースされた「The Beatles」(ホワイト・アルバム)までは──少なくとも「公式アルバム」と呼ばれているものについては──すべてステレオとモノラルの二種類ある。
 しかも、ステレオとモノラルでは同じテイクではあってもミックスが違っているわけで、中にはミックスだけではなく編集の仕方も含むかなり大胆な変更が為されているものがある。つまり、厳密に云えば、一九六八年までのほぼすべての曲に別ミックスがあると考えていい。
 それだけではない。
 じつを云うと、ぼくが最初に買った「Revolver」はイギリス盤でも日本盤でもなくアメリカ盤で、最初に聴いたときは気づかなかったのだが、驚くべきことにアメリカ盤の「Revolver」はオリジナル盤より三曲も曲数が少ないのである。その三曲こそ、このアルバムのカラーを決定づけているようなところもあり、こと「Revolver」に関しては、オリジナルのソング・オーダーで聴く必要がある。十一歳の小学生でもそう思ったのだから、これは間違いない。
 それで十一歳のぼくは、このアルバムの日本盤を持っていた従兄弟からレコードを借り、カセットテープに由緒正しい「Revolver」をダビングして、そればかり聴いていた。
 この事実は、ビートルズのレコードを聴いていく上で、非常に重要かつ興味深いことを示唆している。すなわち、レコードというものはその国によって、少しずつ違っている場合があるということだ。何が違っているかはそれぞれで、ジャケットが違うものもあれば、編集や曲順が違うものもある。楽曲そのものも、ミックスが違っているだけではなく、なにより音の印象、質感、聴こえ方が、かなり違うものがある。
 配信では、こうしたことはまず起こらない。というより、そうしたことがなるべく起こらないよう、すべてが均一に統一されたものとしてリスナーの耳に届くことを追求してきた。それは間違ったことではないし、特に作り手の側からしてみれば、自分の手の中で出来上がったものを、そのまま届けたいと思うのは当然である。
 でも、ほつれのないものはつまらない。
 ほつれのある粗悪なものばかりに囲まれていたときはわからなかったが、いざすべてのノイズが取り除かれて、何もかも一律になってしまったら、あのほつれこそが独特の色気を醸し出していたのだと気がついた。自分にとっての「起点」とまで云いたくなる、あの完璧な「Revolver」というアルバムに、最初はほつれがあって、土壇場でつくり直したということ、そして、そのつくり直す前のほつれのある「Revolver」が世の中に出まわってしまったということ。
 そうしたことのすべてがぼくには面白い。
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Profile

吉田篤弘(よしだあつひろ)

作家。1962年、東京都生まれ。
少年時代からレコードを買い集め、小説家としてのデビュー作『フィンガーボウルの話のつづき』では、ビートルズのホワイト・アルバムを題材にしている。主な著書に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『神様のいる街』『あること、ないこと』『おやすみ、東京』『おるもすと』などがある。