曇り空の音楽 アビー・ロードは晴れているか 吉田篤弘 atsuhiro yoshida

4 …… やわらかい、ということ

 LPレコードのA面とB面を通して聴くと、およそ30分から45分ほどかかる。そのおよその時間が、LPレコードにおける表現のスケールになっていると書いたばかりだが、音楽の世界というのは規定が破られたときに進化するものなので、当然のごとく、型破りな逸脱者があらわれた。
 つまり、LPのひとつの面だけで30分近い音楽を詰め込んでしまった者があらわれたのだ。
 この試みは何人かの音楽家によってチャレンジされ、すぐに思いつくのはトッド・ラングレンの「A Wizard, a True Star」というアルバムである。A面とB面を通して聴くと、ほとんど1時間近くかかる。
 ぼくはこのレコードを池袋のPARCOにあった〈On Stage Yamano〉で買った。1980年代の後半のことだ。それはカット盤ではなかったけれど、この店には、他の店とは違う輸入のルートがあったのか、見たことのないカット盤が何枚もあった。
 そういえば、輸入盤を買い始めたころ、カット盤の意味がわからなくて、しばらく戸惑っていた。ついこのあいだ、CD世代の青年とレコードの話をしていたとき、話題がカット盤になって、彼はそれがどんなものなのか知らなかった。カット盤はCDにもあるので、どういうものか説明したところ、「ああ、それなら見たことがあります」と、ようやく理解を得た。ようするに、売れなくなったレコードやCDのジャケットの一部を切り落として安価に販売したものである。レコードで云うと、ジャケットの四隅のうちのどこかを一センチから二センチくらい三角形にカット・アウトしているものが多い。
 渋谷の〈タワー・レコード〉が開店したのは、ぼくが十九歳のときだったが、なにより安価な輸入盤を売りにしていたので、カット盤も大量に放出されていた。新品であるのに、ジャケットがカットされているとは何ごとかと、最初はとても驚いた。
 が、安さに目がくらんで、そのうち気にならなくなり、「一枚980円」のコーナーでカット盤をあさっていると、カット盤にも常連の盤があることに気づいた。同じレコードばかりが何枚も出てくる。そのほとんどは、その時点において、もうひとつ人気のない盤で、しかし人気がないというのは、考えようによっては大衆に消費されていないことを意味する。手垢にまみれていない通好みの盤が、ときおり、秘密の宝のように紛れ込んでいた。
 この秘密の宝を目利きのバイヤーがセレクトして揃えていたレコード屋が、そのころの東京には何軒かあった。そのひとつが池袋の〈On Stage Yamano〉で、小さな店だったけれど、輸入盤の専門店だった。ぼくはここでMichael Dinnerの「Tom Thumb The Dreamer」を買い、Chuck E. Weissの「The Other Side Of Town」を買い、Badfingerの「No Dice」やVan Dyke Parksの「Jump」を買った。そのころ、それらのレコードはいまのように手軽に聴くことはできなかったけれど、それでも、シールドの新品を入手できたのは、〈タワー・レコード〉が開店したことで輸入盤が身近になり、街のあちらこちらに専門店が増えたからだろう。インターネットが普及する前の話で、地下鉄で移動しながら、小さなレコード屋をめぐり歩くうち、どんなレコードが手に入りやすくて、どんなレコードが稀少なのか、少しずつわかってきた。
 稀少なものは、おそらくすでにマニアのコレクションにおさまっていた。決してヒット・チャートを賑わすようなレコードではないので、大衆に消費されていない分、古びていない。
 そうした手に入りにくいけれど、ミュージシャンにも愛聴されるようなメジャー・アーティストの両雄が、フランク・ザッパとトッド・ラングレンだった。二人とも、サーヴィス精神は旺盛だが、決して大衆に媚びることなく、徹底して独自の音楽をきわめていた。
 だから、トッド・ラングレンが何をしても驚かなかったけれど、LPの片面に三十分近く詰め込んでしまったのは、かなり無謀なことだった。物理的に音が劣化してしまうので、普通なら二枚組にするところである。
 ちなみに、「A Wizard, a True Star」はトッド・ラングレンの四枚目のアルバムで、このアルバムの前後にリリースされた三枚目と五枚目は、いずれも二枚組だった。
 いや、そうなのだ──。
 一枚でおさまりきらないのなら、二枚にしてしまえばいい。
 レコードはA面とB面というふたつの面が生む妙味なのだが、なにしろ、音楽の世界は規定が破られたときに進化するのだから、頑なに二つの面にこだわる必要はない。A面とB面の先にC面とD面があってもいい。
 いいのだけれど、やはり困惑もあった。
 せっかく、ビートルズの「Revolver」を聴いて、「作品」というもののスケール感を耳と体で覚えたのに、ビートルズには「ホワイト・アルバム」という二枚組の傑作があって、これをはじめて聴いたとき、「Revolver」も素晴らしいけれど、無人島に持っていくのは、やはり「ホワイト・アルバム」であると決めて、これはいまも変わらない。
 では、「ホワイト・アルバム」を聴いてしまったことで、「作品」に対するスケール感が変わってしまったかというと、そんなことはなかった。
 というのも、二枚組のレコードは、もともと一枚におさめるつもりだったのが、「結果的に二枚になってしまった」ものが数多く見受けられ、編集盤や企画ものを除くと、あらかじめ、二枚にわたるスケールを見据えてつくられたものは、それほどないように思われる。
 おそらく、「ホワイト・アルバム」も、そうだったのではないだろうか。
 この二枚組が面白いのは、面ごとの物語というかイメージがあり、それがA面とB面だけのレコードより明快に感じられるのだ。このアルバムはCD化されたものも二枚組になっていて、A面とB面で一枚、C面とD面で一枚になっているので、四つの彩りを聴いていく愉しみは半減している。
 こればかりは、四面がいい。
 これが、三枚組になって六面となると、両手で抱えきれなくなる。
 四面というのがちょうどよく、その贅沢さと混沌さが、収拾のつかなくなる一歩手前のところで絶妙におさまっている。
 冒険的な曲が何曲もあり、ぼくがこの二枚組にことさら魅了されている最大の理由は、すべての楽曲が「B面的な」傑作であるところだ。B面的な楽曲だけで構成されているアルバムとでも云えばいいか。
 このアルバムのレコーディング中に、ビートルズの代表作のひとつである「ヘイ・ジュード」が制作されているので、あるいは、アルバムに収録することも検討されたかもしれない。
 ときどき、この四面の中の、どこに「ヘイ・ジュード」を置けばおさまるだろうかと戯れに考えたりするのだが、どこにどう置いても格好がつかない。音の質感からして違うような気さえする。
 そもそも、「ヘイ・ジュード」自体が型破りなシングル曲で、当時のヒットソングとしては異例と云っていい七分を超える長さを持っている。云ってみれば、これもまた「これ以上短くならない」という二枚組的な思惑で完成した一曲だ。
 とはいえ、フォーマットとしては異例ではあるけれど、この曲の風格はやはり「A面」ならではのもので、それゆえ、B面的な曲ばかりが並ぶ「ホワイト・アルバム」には居場所がないのである。


 こんな調子で、「ホワイト・アルバム」について書きつづけたら、それだけで一冊の本になってしまう。
 というか、すでに一冊、書いており、「ホワイト・アルバム」の初回盤に刻印されたシリアル・ナンバーを起点とする小説である。その小説──「フィンガーボウルの話のつづき」というタイトルだ──の解説文として書いた文章を要約してみる。

 とある中古レコード屋でビートルズの〈ホワイト・アルバム〉を見つけ、ジャケットの隅に打たれた六桁の数字に、ふと感じ入った。
 それは全世界共通の通し番号で、本当かどうか分からないが、同じ番号はふたつとないという。
 そこに物語の入口を見つけ、中古の〈ホワイト・アルバム〉を探し歩いた。日本盤だけではなく、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、アルゼンチンといった国の盤が次々と見つかり、見つけるたび、白いジャケットを眺めて、このレコードの前の所有者はどんな人であったかと夢想するようになった。
 ジャケットが真っ白であることが、より妄想を誘った。
 その白さは何も書かれていないノートの白さに似ていて、そのうえ、ひとつひとつに番号が打たれている。
 云ってみれば、白紙と番号を手に入れたわけで、世界中から集められた小さな記憶が三十センチ四方の白い箱におさめられて、ひとつひとつに番号が打たれているように見えた。
 それらの忘れられた記憶を白いジャケットにあぶり出すように、日本盤であれば日本人の物語を、フランス盤であればフランス人の物語を書いた──。

 この小説を書き始めたのは2000年のことで、まさに20世紀が終わろうとしているところだった。そのころは、インターネットを使わなくても、東京にいながらにして、さまざまな国の「ホワイト・アルバム」を買い集めることができた。半年で数十セットを買い、シリアル・ナンバーを手に入れてから、小説を書き始めた。
 どのような理由であれ、酔狂と云うしかないが、あくまでも小説を書くために買い集めたのであり、それらのレコードに針を落として聴いたのは、オマケのようなものだった。
 それまでは、たとえばスペイン盤のレコードや南アフリカ盤のレコードを聴いてみようとは思わなかった。聴くきっかけもなかった。が、その小説を書いたことで、「ホワイト・アルバム」と呼ばれる、かなり個性的な特色をもった物体が、本当に世界中でほぼ同時につくられて販売されたことが実感できた。
 ジャケットが真っ白であるため、一見まったく同じものに見える。まったく同じものが世界中でプレスされて、そこに全世界共通の通し番号が振ってある──この地球を横断した途方もないスケールを、段ボール箱ひと箱ぶんの「ホワイト・アルバム」に教わった。
 そして、この30センチ四方の物体が地球上に何百万枚と点在して、白く点滅しながら信号を送っている、そんな幻覚を見た。
 ところがである。
 真っ白であるがゆえに、一見、同じものに見えた白い物体を両手で持って顔を近づけ、白いジャケットにできた染みや傷を確かめていくと、そうした後天的な特徴だけではなく、たとえば、ジャケットのつくりであるとか、番号の位置と打たれ方、刷り色、レーベルのデザインといったディテールが、じつにさまざまなヴァリエーションを生んでいることに気がついた。
 それらは虫眼鏡で精査するまでもなく、裸眼で確認して判別できるレベルのものなのだが、問題はジャケットだけにとどまらず、針を落として聴いてみると、「ほう」と声が出てしまうほど、それまで自分が愛聴してきた日本盤の「ホワイト・アルバム」と違う音が聞こえてくる盤があった。
 すでに書いたとおり、同じタイトルであっても、国によってそれぞれであることは知っていた。なにしろ、最初に買ったLPレコードがオリジナルのイギリス盤より三曲も少ないアメリカ盤の「Revolver」だったのだから、いきなり「世界は一律ではない」と云われたようなものである。
 人は誰しも、「世界は一律ではない」と、いずれ知ることになるのだろうが、ぼくはこうしてレコードという物体を通して、ごく早いうちに理解してしまった。そして、それはおそらく、レコードがフラジャイルなものであることと無関係ではない。
 とりわけ、「ホワイト・アルバム」のような、ほとんど何も印刷されていない真っ白なジャケットであったりすると、その物体の心もとなさはひときわ顕著になる。
 もとより、レコードのジャケットはボール紙でつくられていて、ジャケットの中に封入されている、ポスターやレコードを入れるインナー・ジャケットなども、すべて紙製である。主役のレコード盤も薄いビニール製で、このビニール盤がいかに埃や湿気に弱いか、レコードを買い集めている人は、皆、よく知っている。まずは堅牢や頑丈といったものから最も遠いところにあると云っていい。
 なにしろ、傷がつきやすい。
 傷がつくと、ノイズが増し、傷が深ければ針がとんでしまう。
 針がとんでしまうと、スキップした箇所の音楽は聴くことができない。これは、音を聴くためにつくられたものとしては致命的な欠陥ではないか。
 というか、こうしてレコードのフラジャイルさを書きつらねていくと、ほとんど、ひとつもいいことがないのではないかとさえ思えてくる。
 が、こうしたフラジャイルなもの──すぐに傷つき、皺が寄り、染みができて、歪んだり、溶けてしまったり、カビが生えたり、埃だらけになってしまったりするものだからこそ、世界が決して一律ではないことを知る手がかりになった。
 子供と同じである。
 この世界が、どのようなものであるか知りたければ、子供に訊けばいい。あるいは、子供と共に生きればいい。つまらないものを鎧った大人たちは、とうに世界の細部が見えなくなっている。傷つきやすい無垢なままの子供の心と目だけが正しく世界を感受している。ときに、痛ましいほど、世界がその心身に反映されている。
 それはつまり、やわらかい、ということだ。
 レコードという物体は、子供のようにやわらかいのである。
 そこに、音の振動を再現する溝が刻まれているということは、溝以外のものも、そのやわらかさに刻まれているということだろう。
 こうした考察を経て、いまいちど段ボール箱に入れられた「ホワイト・アルバム」を眺めていると、その白くてやわらかくて頼りない物体は、出自となるそれぞれの国の特性や気候といったものを、その身に引き受け、引き受けたものが、傷や染みとなって顕現している。そのレコードを所有していた誰かの指紋はもちろんのこと、コーヒー・カップをジャケットの上に置いたときにできた輪染みが目立つ盤もある。名前が書き込まれていたり、白いジャケットをキャンヴァスに見立てて、絵を描いてしまった前所有者もいる。
 世界中から集められた「ホワイト・アルバム」は、世界各地のあらゆる事象を、吸い上げたり刻んだりして、そこにあった。


 それにしても興味深いのは、そうした国ごとの特色が音そのものにあらわれていることだ。
 いや、内容はどの国のどの盤も同じである。
 ジェネレーションの違いはあるかもしれないが、ステレオ盤もモノラル盤も、同一のマスターを起源としてつくられ、収録された楽曲は、世界中のどの盤も共通している。
 何かと収録曲を改変しがちなアメリカ盤までもが、「ホワイト・アルバム」においては、オリジナル通りなのだ。
 こうした収録曲の統一は「Revolver」の次にリリースされた「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」以降、ワールドワイドに徹底されているものと思っていた。
 が、あまり知られていないことだが、東南アジア(香港、マレーシア)でつくられた「サージェント・ペパーズ」は「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を含む三曲が別の曲に差し替えられている。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の代わりにアルバムの最後を飾るのは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」で、その違和感はかなりのものがある。
 このように異様なレコードが存在することを最近まで知らなかった。だから、今後、もしかすると「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」あたりが別の曲に差し替えられている「ホワイト・アルバム」がマレーシアで発売されていたと誰かが発見するかもしれない。その可能性を秘めた上で、いまのところ「ホワイト・アルバム」については、全世界共通のソングオーダーであったと考えていい。
 しかし、違うのである。
 同じマスターを使用して、同じソングオーダーでつくられているのに、ドイツ盤とイタリア盤では、その印象がかなり違って聴こえる。
 特にドイツ盤は曲者で、プレスされた時期によって音の質感がずいぶん違っている。見方を変えると、レコードをつくっている職人のさじ加減ひとつで、出てくる音色が違うように思われるのだ。
 ものすごく暗い音像の時期もあれば、思わずのけぞってしまうくらい迫力のある音を響かせる時期もある。違いはあるけれど、その暗さも迫力も(ドイツらしいな)と、つい納得してしまう。
 これに対してイタリア盤は、「細かいことは気にしないで、陽気に行こう」という感じが音像から伝わってくる。
 スペイン盤は、どことなくフラメンコの情熱を感じるパンキッシュな仕上がりになっているし、フランス盤は迫力には欠けるものの、なんとなく優雅でしなやかな印象がのこる。
 「いや、それは先入観によるものでしょう」とおっしゃる方もいるだろうけれど、「いやいや、これがあながち、そうでもないんです」と返したい。
 たまたま、ぼくは小説を書くために同じレコードのさまざまな国の盤を聴く機会を持ったわけだが、こんなにも、お国柄が反映されるものなのかと驚いた。
 それで、「ホワイト・アルバム」に限らず、ビートルズの他のタイトルについても、北欧から南米まで、中古レコード屋で見つけるたび、手に入れて聴くようになった。
 その結果──いや、結論を出すのは、まだまだ先のことになるだろうから、結果というより途中経過の報告なのだけれど──やはりどのタイトルも国によって音が違うものがいくつも見つかり、さらに云うと、先のドイツ盤がそうであったように、同じ国の中でも、プレスされた時期によって音の印象がずいぶんと違っていることがわかった。
 ともすれば、同じ時期にプレスされたものであっても、あきらかに違いのわかる盤もある。
 これはやはり、レコードというものが「やわらかい」からそうなるのではないかと思う。
 レコードは云ってみれば、ハンコを捺す要領でつくられている。
 誰でも一度は紙にハンコを捺した経験があるだろう。
 もしくは、観光地などによくある記念スタンプでもいい。インクをつけて、力をこめながらスタンプを紙に捺しつけると、一枚であれば、およそ問題なく捺せるはずだ。
 しかし、これを二枚、三枚、四枚と捺していくと、そのうち、かすれたり、にじんだり、線や文字がつぶれたりする。
 これと似たことが、レコードをプレスするときにも起きる。
 まずもって、捺されるビニールが一律とは云い難く、硬かったり、厚かったり、薄っぺらだったりする。
 捺す方のスタンパーも、何百枚とスタンプするうちに磨耗し、記念スタンプの文字やイラストがかすれるのと同じようなことが起きる。
 それだけではない。
 やわらかいものは、どうしても強いものに負けていく。
 人の力に負けて、汚れて傷がつくのだ。
 たとえ、人が慎重に取り扱っても、なにしろ、レコードで音楽を聴くというのは、基本、やわらかいビニールを硬い針でトレースすることを意味する。
 無論、やわらかいビニールは少しずつ削られていくことになり、削れると平坦さが損なわれてノイズが発生する。そうして、人の関与がノイズによって刻印されていく。
 こういったことをすべて背負って、レコードはいまここにあり、やわらかくフラジャイルなものは、たとえ、ひとつひとつにシリアル・ナンバーが打たれていなくても、傷だらけになることで、世界でただ一枚の個体になっていくのだ。


 ここで、「ホワイト・アルバム」から離れて、さまざまな国でつくられたビートルズのレコードを俯瞰してみると、ぼくの耳には地球の南側でつくられたいくつかの盤が心地よい音を鳴らしているように感じられる。
 具体的に云うと、オーストラリアやニュージーランドやインドや南アフリカでつくられたレコードがじつにバランスよく空気を震わせてみせるのだ。
 不思議だった。奇妙と云ってもいい。どうしてなのか。
 それで、こう考えた。
 ビートルズの音楽は地球の北側でつくられているのだ、と。
 これまで、そんなふうに考えたことはなかったのだが、いささかデフォルメして捉えると、彼らのホームタウンは冷たい雨が降る街であり、いつも空が曇っていて、息が白くなる。そういうところでつくられた音楽なのだ。
 そうして北の空気の中で生まれたものを、南のあたたかい空気に放ったとき、ちょうどいい湯加減になったのではあるまいか。
 北で冷凍保存された音を、南のエンジニアがあたたかい空気で自然解凍して、気持ちよく聴こえる音に調整した。
 そんなふうに耳に届く。
 では、ロンドンよりもっと寒いところで調整されたレコードは、どんな音がするのだろう。北欧に目を向けると、ノルウェーでつくられたものは数が少ないかもしれないが、スウェーデンやデンマークでつくられたビートルズのレコードは意外に市場に出てくる。聴いてみると、それはイギリス盤に準じた音づくりでありながら、雑味が排除された清潔な印象をのこし、これもまた、国の風土やイメージを裏切るものではない。
 問題はかつてのソ連であり、ソ連では長いあいだ、西側の音楽を聴くことが規制されていた。しかし、もういちど云うが、規定は破られるためにあり、その破り方が唯一無二のものであれば、ときに、芸術的なものに成り代わる。
 かつてのソ連においては、使用済みのレントゲン写真を再利用してレコードをつくっていた時代があり、それらはすべて、非公式の海賊盤だった。秘密裏に売買されていた、そのきわめて「やわらかい」レコードは、妖しくも麗しい香りを放ちながら、歴史の闇の奥から、ときどき顔を覗かせる。



*お知らせ
吉田篤弘さんの単行本2冊が同時刊行されます。5月24日以降発売(地域差があります)

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フィンガーボウルの話のつづき

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Profile

吉田篤弘(よしだあつひろ)

作家。1962年、東京都生まれ。
少年時代からレコードを買い集め、小説家としてのデビュー作『フィンガーボウルの話のつづき』では、ビートルズのホワイト・アルバムを題材にしている。主な著書に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『神様のいる街』『あること、ないこと』『おやすみ、東京』『おるもすと』などがある。