12月某日
人参は、とても硬い。
料理をはじめてまず驚いたことだ。
乱切りならまだやれる。
いちょう切りもまあなんとか。
でも「みじん切りにしろ」と指図されたら。
硬い硬い腕痛い。
ジョキッと包丁が入って、途中でグッと止まって、バキッと折れる。
絶対包丁の持ち方が悪い。切り方も悪い。包丁も悪い。
そもそも人参が悪い。いや私が悪い。もう全部悪い。
切れば切るほど、人参のクズが散らかれば散らかるほど
どんどん気分は盛り下がってしまって
もう料理なんてやりたくない、と
うずくまって泣きたくなる。
だから人参のみじん切り(と剥きづらい果物)から逃げて生きてきた。
生のままで一本かじれる馬は偉いよ。
でも私は人間だもの。
真似して生食したら消化に悪すぎる。
火を通すから、小さく刻むから、消化を外部化するから、
私たちは効率よくものを食べることができるのだ。
そのおかげで余った時間を他に使うことができるのだ。
だから人間は進化したのだと、リチャード・ランガムさんが言っていた。
人間以外の動物は未だに1日の大半を消化活動や食料探しに費やしている。
料理で人は進化した。
進化しすぎて料理すら外部化してしまった。のが現代社会だろうか。
外食と中食だけで胃袋も心も満たせてしまえる私は、
想像以上に高い材料で、想像以下の料理しかこしらえられない
自炊という行為の意味を見失ってしまう日が正直、ある。
お金も時間もかけたのに、しけた料理しか生み出せなかった......。
口に合わない料理を前に、乱れきったキッチンを背後に
立ち現れる虚無は凄まじい。
トップ画面のイラストは実に的確だ。
そんな底辺に必要なのはただひとつ。
成功体験である。
こんな私もできました。
その喜びが、次につながる勇気になる。
料理家・藤原奈緒さんのおいしいびん詰め「カレーのもと」は、
底辺の私に希望を与えてくれた重要なアイテムだ。
「カレーのもと」さえあれば、
挽肉と野菜のみじん切りと一緒に炒めるだけで、
本気のスパイスとおうちの味が両立する最高のキーマカレーができてしまう。
(隠し味には醤油をひとたらし!)
自分の手で美味なるものをこしらえることができた。
その手応えはなににも代え難い。
(たとえそれがCook Do的な手助けを借りていたとしても!)
ありがとう、おいしいびん詰め。
ありがとう、藤原奈緒さん。
私の料理人生の底辺期を支えてくれた存在として、
「カレーのもと」は永遠に輝き続けるだろう。
ただし、一点だけ難点がある。
このレシピには人参のみじん切りが登場するのだ。
正直憂鬱だ。
人参抜きじゃダメかなあとか思ったりする。
(多分、抜きでもいいんだろうけど
"レシピをアレンジする"という守破離的行為が底辺にはできない)
だから、
「こればっかりは」と思って、
神様の与えた試練だと思って、
キーマカレー作りにおいてのみ、
私は例外的にみじん切りに勤しむことにしている。
手が痛かろうが時間がかかろうが、
必ず報われることがわかっているからだ。
そのうちみじん切り自体、苦もなくこなせるようになればよい。
しかしこの盛りつけはないだろう。
中目黒のジンギスカン食堂・まえだやのラムキーマカレー の
盛りつけインスパイアのつもりだったんだけど、
私のセンスがなさすぎて大変なことになってしまった。
茹で卵の残り、どこいったんだよ。
参考レシピ:
あたらしい日常料理 ふじわら おいしいびん詰め「カレーのもと」
12月某日
後日、あの見た目は改善しなければ、と思い、
改めてキーマカレーを作ってみる。
どうじゃろ、これ。
卵を変えてみたんですが。
ツレヅレハナコさん仕込みのガリガリフゥワフゥワの目玉焼きなんですが。
この目玉焼き、油たっぷり弱火で焼くんだけどめっちゃおいしいの。
さすが卵を愛する人のレシピなだけあるなあ。
シャクシャクした白身にとろける卵黄をカレーに混ぜながらほおばりましたよ。
あとはパクチーなんか散らしちゃったら完璧なんじゃないですか。
「私、カフェやる!」っておもわず椅子から立ちあがりそうになりましたよ。
参考レシピ:
ツレヅレハナコ流、おいしい目玉焼きの作りかた。