山姥のいるところ|寺尾紗穂

第3回 猪苗代のおんばさま(2)

「あれ、今日集まってるんじゃないの。ラッキーですよ」
 庭というには広い畑が広がる、そんな民家がぱらぱらと続くような一角にタクシーが止まると、車が数台すでに停まっていた。伯父ヶ倉のおんばさまは「橋姫神社」とも言われるが、見た感じ神社らしき雰囲気は全くなく、横に回りこむとたしかにお堂部分の前に注連縄(しめなわ)のようなものがかかり、参拝できる体になっているものの、印象は普通の平屋だ。運転手さんが中に入っていくと何人ものおばさんたちが集まっているところだった。机にはゆでたまごや、楊枝のささった果物が載ったお皿が並んでいる。顔見知りがいるらしい運転手さんが、「東京からおんばさまのこと知りたくて見にきたって」と紹介してくれる。少し前まで食事をしていたらしいおばさんたちの一人が「まあ、暑いところよく」と薄く切った豆腐のお吸い物と西瓜を出してくださる。運転手さんと並んでいただく。平屋はおんばさまのいるらしい奥の座敷、それに団欒(だんらん)したり作業をする一間の二間からなっている。おばさんたちは50代後半から70代前半という感じだろうか。中心は60代かもしれない。おばさんたちはみな手を動かして赤い布を縫っている。お地蔵さまの祭りが近いので前掛けを新調するのだという。おんばさまの世話以外にも、皆で食事をしたり、祭りの準備をしたり、世間話をしたり、和気藹々(わきあいあい)と楽しそうだ。野菜作りのコツや料理の話など情報交換の場としても貴重らしい。
「娘さんの世代は参加しないんですか?」
「明治大正から、代々で受け継がれてきたの」
 別のおばさんが言葉をつぐ。
「途絶えることないですね、きっとこれからもずっともう。年の順に入ってきて、そして抜けたらまた新しい人が入ってくるからね。こうして守られてるんでしょうね、地域でね。そういう行事っていうのは絶やさないで」
 若い人は関わらないが、一定の年齢になったら同世代で関わる。途絶えることなどありえない、という穏やかな自信がどこから来るものかと不思議に思えたが、「その世代になったら仲間と参加するもの」という習慣は確かに、伝承を長く存続させる上で重要なポイントかもしれない。
 西瓜を食べ終えて、隣の間に入らせてもらった私はまたしても愕然とした。ここでも本物のおんばさまを見ることはできなかったのだ。その代わり、関脇よりは「秘仏」たるガードが和らいでおり、壁の高い位置にある注連縄の上におんばさまのカラー写真が飾られていた。写真からわかる限りでは、伯父ヶ倉のおんばさまは黒光りしており、表情ははっきりとわかりにくかった。江戸中期の作で町指定文化財にもなっている石製のこのおんばさまは、そもそもこの場所ではなく、近くの長瀬川の橋のたもとに置かれていたのが、圃場整備で今の場所に移されたもので、「橋姫」と呼ばれている。橋姫神社というのは、もとをたどると宇治に本家がある。本家の橋姫は縁切りで有名なようだが、こちらは安産の神様になっている。入学祈願も受け付けているそうで、村の需要を受けておんばさまの霊験も幅広くなったりするらしい。おばさんたちは毎月1日と15日に、堂の掃除と、会合のために集まる。猪苗代の音楽イベントがたまたま8月1日だったために、幸運にもこの集まりに遭遇することができたわけだ。一年に一度、祭礼の日というのがあり、関脇と同じ9月16日で、今も数組の安産祈願の女性たちが訪れるという。
「その日はここいっぱい来るの。お祭り。宮司さんにきて拝んでもらって。一日のお正月も開けるんです。お正月って忙しいんだけど、でもみんな来るんです」
「初詣のあとにですか?」
「そう、そのときはおんばさまはお洋服脱いで身体きれいに磨いて、そしてまた着せて」
 一年の垢(あか)を落としてもらうおんばさまはどんな表情をするのだろう。作られた江戸中期から同じように女たちに囲まれ世話され拝まれてきたのだろうか。関脇のおんばさまの由緒がわからなかったように、「橋姫神社」の御由緒を読んでもはっきりしたことはわからない。ただし、こちらは807年に磐梯山が崩れた際、周辺の7つの川が合流して七瀬川と呼ばれる大きな川になってしまい、溺死者も出たため810年に橋姫が祀られるようになったという。つまり、姥神信仰の背景としては関脇よりもさらに古い時代にさかのぼる。しかし、この時代からすでに像があったかは定かでなく、『新編 会津風土記』によれば「草創の時代を知らず、修験覚法院司る」という記述が見え、ここもまた修験の絡むおんばさまであるらしい。その由緒についておばちゃんたちに、詳しい情報も伝わっていないようで、関脇のおんばさまとの姉妹関係についても、
「姉妹って話はしたの?」
「したよ、向こうがお姉さんでいいかしら」
「いははははは」
といった調子で、「すべからく妹ということにしている」関脇のスタンスも併せて思いだされ、確かにそのようなことはどちらでもよくなるなあと、調査に来たのにのんびりした気持ちになってしまう。
 9月の祭礼のときに安産祈願にきた女性たちは、無事生まれると再びお礼参りに来る。
「そんときはまたお礼参りのうた。御詠歌っていうんですけど、やるんです。いつも1日と16日。これをね」
おばちゃんの手元には「姥神御詠歌」と墨で書かれた冊子がある。見せてもらうと「お姥様頼み御詠歌」「礼参り御詠歌」「病気礼参り御詠歌」の歌詞がかかれ、「病気礼参り御詠歌」のラスト部分だろうか、最後のページに「南無阿弥陀佛」と3行書いてあり、その後5行にわたり「祓詞(はらえことば)」が以下のように書いてある。

 掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘 
 小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に生り坐せ
 る祓戸の大神等 諸々の祓事 罪 穢有らむをば 
 祓へ給ひ 清め給へと白す事を 聞こし食せと 
 恐み恐みも白す

「南無阿弥陀佛」と「伊邪那岐」が「姥神御詠歌」の中で共存しており、これぞ民間信仰という感じがする。そもそもこの場所は「橋姫神社」のはずだが、御詠歌の内容は「地蔵」「念佛」「御仏の恵み」など仏教色が強い。明治の廃仏毀釈時、民間信仰の中で像として仏体のある神さまたちは曖昧で不純なものとされ、天照大神などメジャーな神道の神に変更・合祀されたり、明神様として女性たちの明神講という信仰として残されてきた歴史がある。橋姫神社もそもそもは橋姫の仏教的信仰が先行し、神社は後付けの可能性が十二分にあるだろう。御詠歌を歌ってもらえないかと頼んだところ、快諾してくれたおばちゃんが、他のおばちゃんを誘い始める。
「みんなでやんないと気分出ないね、みんなでやんないとね。はいはい、見ててください、鉦(かね)たたいてもらって」
「どちらさまですか」
 多少とまどう様子の別のおばさんから話しかけられ、東京から姥神さまを調べにきた旨を伝える。
「そりゃご苦労さま」
 おばさんがそう答え終わるまもなく、カーンカーンカーンと鉦が鳴って御詠歌が始まった。

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一、胎内に宿りしよりも 願いおく子安く持たせ賜まう姥神
二、松の露 竹の緑に 安らかに産めよと祈る とこゑ ひとこゑ
三、姥神は産にけがをば させまいと 参る人々 たのもしきかな
四、朝日さす夕日輝く長瀬川 大悲の光 萬代までも

 歌い終わるとおばさんたちは
「あはははは、ふふふふふ」
と少女のように笑いあって、実に楽しげだったが、
「拝むときは私うっかりやってたけどエプロンぬいでやらんとな」とつぶやく人もいた。節回しは一度聞いただけではとても覚えられるものでなく、録音したものをもとに、メロディーと言葉割りを譜面化してみようとしたものの、苦戦する難しさだった。この難しい歌を声をそろえておばさんたちが乱れもせずに歌うのは、ちょっとした衝撃だった。聞けば、猪苗代三十三観音の歌も歌詞はたがえど、同じメロディーであるらしい。他のおんばさまの御詠歌も存在するのだろうか。
 猪苗代は80くらいおんばさまがいるようですが、飯豊山の上にもいらっしゃると聞きましたが、と切り出すと
「へえ! そんなに!」
「やっぱ情報すごいね、私わかんなかった。自分のことしかわかんない」
ふと、かわいらしいおばあちゃんがつぶやいた。
「本できたって私たちにはわかんないよね」
できたらお送りしますと言うと
「だと有難い、だと有難い」
と本好きらしいおばあちゃんがすかさず答え、住所と名前を教えてくれた。阿部さんというそのかわいらしいおばあちゃんが案内してくれた庭の六地蔵の横には、十九夜講も祀られていたが、それが何かは阿部さんも把握していなかった。姥神信仰と並行してこの地に続いていた十九夜講という女性の寄り合いは、いつの間にか消えてしまったようだ。この十九夜講は如意輪観音を祀って今なお存続している地方もあり、管見の限りでは、姥神を世話しつつ団欒するこのおばさんたちの会と大変似通った毎月19日に集まる集いである。この地では、姥神の集いも1日、16日と2回開かれるため、集まる回数を減らす意味でも、自然と姥神信仰のみに絞られていったのかもしれない。

 タクシーの運転手さんと一緒にお礼を言って、金曲へ向かう。約束の4時には少し早く着いたけれどタクシーにいつまでも乗っているわけにもいかないので、早めに降ろしてもらってお堂の周りを見て時間をつぶす。
 
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 お堂には「優婆夷霊(うばいれい)」と書かれた木の扁額がかかっており、下のガラス戸には「西真行観音講」と12名の女性の名が書かれた平成17年の張り紙や、「入江観音講一同」と書かれた平成19年の張り紙が参拝記念として張られている。西真行(にしまゆき)も入江も猪苗代町にある地名で、地元の女性たちの信仰の篤さを感じる。
木の格子がはまったガラス戸は中から白い水玉模様のビニールが張られ、外から覗
いても中の様子はよくわからない。少し先には長瀬川が流れている。お堂の脇に道陸神(どうろくじん)と書かれた小さな立て札があり、その横に男性器と女性器を模した石が祀られている。盗まれるのを防ぐためか、小さな木の祠に入れられて南京錠がかかっており、隙間からのぞくことしかできない。振り返ると少し枯れ始めた紫陽花の紫が、それでも目に鮮やかだ。お堂の前には金曲おんばさまの由来を書いた看板が立っていた。

金曲おんばさま沿革史
 そもそもおんば神と申するは、この人界の安産子育ての御神なり。よっておんば神芦名姫を橋姫神社として大字金曲字村北一九八番地に祭り給うものなり。
 さてこのおんば神は橋姫またの名を芦名姫とも申し貧民救済のため諸国を行脚中大同二年八月十六日長瀬川金曲舟場にお立寄り遊ばさる。折しも大暴風雨がおこり洪水濁水舟止めとなり。人皆青ざめおののきたり。中に一人臨月の妊婦水難に遭い息も絶えだえなり。橋姫は直ちにかたわらの明神様のほこらに引き入れたまいみそぎはらいを念じたとえ御ほこらを汚す罪深くして地獄におとさるとも、この母と妊りし子を救いたまえと悲願の末、かいがいしく御介抱なさせ給えるにその念力あらたかなり。妊婦の顔に紅さしのぼり産ぶ声も高らかに安産の喜びを得たり。
 かかるが故に村人ら芦名姫を産婦女人救いの神と仰ぎ奉り長くこの地に御とうりゅうを乞う。姫はこのほこらに御とうりゅうあそばされ村の女人の安産に力をいたされ、なおかつ近郷近在にも行脚を遊ばされ人々を救い給う。安産のわざを習いおぼえ妹分も所々に出づるに至る。村人この神力御加護忘れまじと姫の没後ここにおんば神として祭り橋姫神社と称え奉り、併せて子安観音、延命地蔵尊、閻魔及鬼子母神?の三体を祭り奉る。

 この金曲のおんばさま沿革史を読むと、おんばさま信仰の成立にかかわる背景が見えてくる。まず、おんばさまは諸国を行脚する女性だった、ということ。次にお産を助け、この地で安産のわざを教えたありがたい人物だった、ということである。気まぐれな産婆さんがたまたまこの村にやってきた、というのとはわけが違いそうである。
 産婆や「取り上げばあさん」という言葉からイメージできるのは、その共同体に住む年配の女性像だ。病院での出産が広まる以前は、家にそのようなお婆さんを呼んできてお産をしたということは、知識として知っている。しかし調べてみると、共同体以外から婆を迎えていた地域が多いことが分かる。
 たとえば熊本の阿蘇地方ではよそ者や漂泊者が産婆をつとめていたという。よそ者が福をもたらすという考え方は、折口信夫が「まれびと」という概念で示したように、神が常世という異界からこちら側にやってくるという考えに根ざしている。遊芸人などの漂泊者が受け入れられてきた背景にも、外来者が福をもたらしてくれる、という大まかな共通認識があったのかもしれない。
 ではなぜ産婆が漂泊しているのか。改めて沿革史を読むと、芦名姫は「みそぎはらいを念じ」「念力」で母子を救っている。ただの産婆ではない。巫女の影がちらつくのだ。鎌田久子は、岡山県備中町では難産だとフカバラという地名に住むユリという女性が来てもんでくれるという事例を紹介し、ユリは巫女に多い名前であると指摘している。またユリは茶センと言われる被差別部落の人間でもあるという(「産婆 その巫女的性格について」、『成城文藝』1966年)。茶センとは、茶筅であり、竹細工の職人を指す。竹細工は革細工などと並び「細工の者」と呼ばれ、部落の者をさした。そもそも、昔のお産は命がけであって、そこに占いや神がかりの力が求められていた。網野善彦は、非人が被差別の対象となっていく前は、神人として、特殊な地位を与えられていた点に光をあてたが、お産についても胞衣の処理がないがしろにできない重要な意味を持っており、神につながる非人たちにその処理が任されていたと述べている。部落の者や漂泊者にお産が任された経緯には、そのように正当な必然性があったが、やがて血の穢(けが)れの問題が絡んで蔑視されていく点は牛馬の処理などと共通している。

 巫女と言われても現代の私たちは、神社でおみくじを売る若い女性しか想像できなくなっているが、男性の神官などいない古い時代、その役割は女性のものだった。神のために水辺で禊(みそぎ)をする女性たちはやがて、山神の火性を鎮めるための水性として山に入ったとも言われる。どうやら山姥という「妖怪」の発達もこうした巫女の存在と関連があるようなのだが、巫女が山に籠り山神に仕えたのは、かなり古い時代のことのようで、中世の巫女像は大きく分けて二つである。
 ひとつは神社に所属して給分を受けた神和(かんなぎ)系の巫女、もうひとつは各地を放浪し町村に土着し、呪術ごとに報酬をとった口寄せ系の巫女である。口寄せとは、死者の言葉を伝えるという意で、現在の霊能者、恐山のイタコや沖縄のユタのようなイメージが強い。この放浪する巫女は歩き巫女とも言われ、遊芸者もいれば、熊野比丘尼(びくに)と言われるような、熊野のご利益を地獄絵図の絵解きで伝えていく者もいた。占いを行い、穀神を祭り、酒を造り、鏡作り、機織や裁縫をし、井戸を掘り、家屋を作るなど、中には村を興すようなこともしたらしく、農村経済に深くかかわってきたとされるが、流浪を続ける巫女の中には生活が苦しく体を売りながら放浪する者も多かった。さまざまなバリエーションが見られる歩き巫女なのだが、金曲の場合は、貧民救済を志していたという記述もあるので、仏教的使命を負った比丘尼のような歩き巫女の一人が、この地で助産に携り、村人に感謝され芦名姫とされたのかもしれない。
 芦名というのは、相模国三浦郡芦名郷におこった鎌倉御家人三浦氏に端を発する芦名氏に由来するようだ。芦名氏は12世紀には会津一帯を支配したが、その後伊達氏に敗れて常陸にくだり、秋田に移り17世紀に角館で断絶した。芦名姫という呼称誕生の経緯はわからないが、会津から芦名氏が追われた後に人々がおんばさまに与えた呼び名かもしれない。
 
 やがて神社の前に車が一台とまり60代くらいの2人の女性が降りてきた。鍵を持ってきてくれたのだ。お堂の右に併設されている部屋のアルミサッシの引き戸の鍵を開けて中に入れてもらうと二間ほどあった。手前の部屋でお茶をいれていただき、お話をうかがう。
「集まるのは毎月16日ですね、今は5人で3年交代で当番を決めて活動してます」
 伯父ヶ倉のようには活気がないのかもしれないが、ささやかにおんばさまが支えられている印象だ。関脇や伯父ヶ倉は秘仏として公開していなかったが、この金曲でようやくおんばさまを見せてもらうことができた。
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 お堂のほうにまわると、ぎょっとした。台座も含め1メートル近くあるおんばさまの石像が花模様の赤っぽい着物の上に紫のストールのような頬かむりをして座っている。おんばさまの表情は古びすぎてほとんどわからないがかろうじて女性であることはわかる。その表情の読めなさと、ストールの紫色の高貴な感じが相俟って、ちょっと近寄りがたい不気味な雰囲気を醸し出している。視線を左に移すと台座なしだがもう一人のおんばさまがいる。一見おんばさまと思われるのは、中央のおんばさまと同じ赤っぽい花模様の服を着ているからだ。こちらは赤いひもつき帽子をかぶせられ、首元でちょうちょ結びになっている。しかし、顔をよく見るとどう見ても男である。眉は太く逆ハの字で、目もつりあがり、鼻もいかつく口もへの字である。男みたいな顔に見えますが、と尋ねると
「はい、でもどちらもおんばさまと聞いてます」
との答えで、ここでもあまり詳細は伝わっていない模様だった。二体の間には男性器の木像が置かれ、おんばさまの安産信仰と道祖神の子宝信仰がセットになっているようだ。
 私はこのどう見ても男に見えるおんばさまを見ながら、これは本当は閻魔ではないだろうか、と考えた。じつは姥神は閻魔とセットで祀られることも多い。それは、姥神がもうひとつの重要な女神像の系譜、奪衣婆(だつえば)と習合していくためだ。奪衣婆というのは、読んで字のごとく衣を奪う婆だ。死後の世界で、三途の川の袂(たもと)にいるとされるのがこの奪衣婆で、死者の衣をはいで傍らの木の枝にかけ、その枝が大きくしなると、その人間の罪が重いと判定され、地獄行きが決まるとされる。この時奪衣婆と共同作業をするらしい、懸衣翁(けんえおう)という爺さんもおり、この懸衣翁や閻魔と奪衣婆がセットで祀られることが多い。松崎憲三の報告によれば、秘仏とされる関脇のおんばさまも、脇士として閻魔と地蔵が安置されているそうで、金曲のおんばさまも地獄思想が反映されている可能性が高い。
 閻魔や奪衣婆、地蔵に代表される地獄思想は地獄を司る十王信仰として、室町ごろから日本に流入した。石仏に詳しい田中英雄は、姥神に比べると奪衣婆のほうが乳房が目立たないとしている(『東国里山の石神・石仏系譜』)。山の神、豊穣、安産の神としての姥神の母性的な要素が、地獄の奪衣婆に習合していくことで、外見上消えていったのかもしれない。
 もうひとつ、注目しなければならないのは、道祖神とともに祀られていることだ。すでに述べたように、道祖神、塞(さい)の神信仰は、安産や子孫繁栄の願いが姥神信仰と共鳴しているが、もう一点、どちらも結界に祀られることがある。姥神は境目、すなわち「関」に安置されるのだ。川というのも村境になることが多いが、さっきの三途の川にあてはめればこの世とあの世の境目でもある。姥神を村境に祀ることで、そこは悪いものを入れない結界となる。道祖神、すなわち塞の神も同様の役割を果たしていることは広く知られるところだ。この「関」の姥神は、「咳」にご利益のある姥神とされて信仰されていくパターンもあり、これについて柳田国男も「咳のおば様」という文章を残している。
 猪苗代3箇所のおんばさまをめぐっただけで、いろいろな姥神の背景が見えてきた。優婆夷、橋姫、巫女、奪衣婆、三途の川、結界、そしておそらく猪苗代全体に共通する修験道の影。その一方で修験道の山には多く女人結界が存在する。女性をその先から締め出す女人結界という境界と女神との関係性は、一体どのように説明できるのか。東日本各地に残る姥神を訪ねてゆくことで、その多様な形態と信仰のあり方を探ってみたい。そうすることで、「山姥」とは何者か見えてくるだろうか。



絵・文字 松井一平

寺尾紗穂

シンガー・ソングライター、エッセイスト。1981年東京生まれ。大学時代に結成したバンドThousands Birdies' Legsで音楽活動に入る。2006年、ミニアルバム『愛し、日々』でソロデビュー。2015年には7作目となるアルバム『楕円の夢』を発表。音楽活動のかたわら文筆家としても活躍。著書に『評伝 川島芳子』『愛し、日々』『原発労働者』『南洋と私』がある。