東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第242回

生まれてはじめて見ました。

四月某日 晴

 なんとなく、重い。気持ちが重いのか、体が重いのか、よくわからないのだけれど、重い。

 と感じはじめて、今日で約一週間。新型コロナのもとでの生活が、自分の精神をむしばんでいるのかもしれない。

 繊細な自分。と思いながら、久しぶりに体重計に乗ると、前にはかった時よりも三キロ体重が増えている。

 夜、自分に向き合って、自分と対話。

 ――あなたは、気持ちが弱っていますか? そのために食欲がなくなったりしていますか?

 ――いいえ。

 ――あなたはむしろ食欲があり、そのうえ元気いっぱいですか?

 ――......どちらかといえば、はい。

 ――あなたはその元気を持てあまし、いつもよりもつい食事の量が多くなっていますか?

 ――......はい。

 自分と向き合うつらさをしみじみ感じながら、「繊細な自分」という言葉を心の手帳から消し去り、かわりに、「シャチはのしかかって獲物をしとめる」(昨夜「ダーウィンが来た!」で知った豆知識)と、書きこむ。

 

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四月某日 晴

 駅ビルのスーパーマーケットへ買い物に。

 途中にある大型家電の店の前の歩道に、女性がしゃがみこんで電話をしている。

「痴情のもつれなのよ、うん、痴情のもつれ。だからぁ、痴情のもつれが」と、大声で電話の向こうの誰かに向かって繰り返している。どうやら、相手が「痴情のもつれ」という言葉を理解してくれていない様子。

 しまいに女性は立ち上がり、

「あのね、チジョウノモツレ。チ・ジョ・ウ・ノ・モ・ツ・レ」と、スマートフォンを平らにして、さらに大声ではっきりと。

「痴情のもつれ」という言葉を実際に口にしている人を、生まれてはじめて見ました。ちなみに、小説の中では、わたしは二回ほど使ったことがあります......。

 

四月某日 晴

 立川の美術館で開かれている展覧会に行く。

 帰りの電車の中で、アベノマスクをしている男性を見る。

 安倍前首相以外で、実際にアベノマスクをしている人を、生まれてはじめて見ました......。

 

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四月某日 晴

 知人がバングラデシュに住んでいるという友人と、立ち話。

「バングラデシュは、ずっとロックダウンが続いているんですって」

 とのこと。

「大変だね」

 と言うと、

「でも、ロックダウンが長く続きすぎて、陽気なバングラデシュの人たちのステイホームがどんどんゆるくなってきているから、この前、さらに厳しいロックダウンに移行したそうなの」

「厳しいって、どんなロックダウン?」

「ハードロックダウンだって」

 その昔、バングラデシュ・コンサートを主催した泉下のジョージ・ハリスンは「ハードロックダウン」について何を思うだろうか......と、しばし放心。

 でも、バングラデシュの人たちが陽気だと知って、なんとなく嬉しいです......。

  • 第243回  赤い鳥小鳥。
  • 第242回  生まれてはじめて見ました。
  • 第241回  いろんなくらくら。
  • 第240回  目の前ににんじん。
  • 第239回  掃除機とフェンシング。
  • 第238回  ひ。
  • 第237回  まだ知らない......。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)

作家。1958年、東京生まれ。著書に、『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『七夜物語』『猫を拾いに』ほか多数。「東京日記」シリーズは、『卵一個ぶんのお祝い。』『ほかに踊りを知らない。』『ナマズの幸運。』『不良になりました。』ほか、最新刊『赤いゾンビ、青いゾンビ』も好評発売中。

平凡社

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