第二十七回

そばの町で新そばについて

 今回テーマをいただくにあたって、新蕎麦というものを初めて意識した。それはそうだ。そばにも収穫の時期があって、それを早めに食べたらおいしいというわけである。そば粉を販売している日穀製粉のサイトによると、9月から11月に採れたものを年内に食べる「秋新」と呼ばれるそばが新蕎麦ということになるらしい。また新しい食べ物が現れ、何を食べるかという日々の悩みが深くなってゆくのを感じる。おいしいそばは本当においしいもんなあ。おいしいうどんも本当においしいけど。

 そんなふうに、ついついそばというとうどんを持ち出してしまうのだが、これが愚問だというのはなんとなくわかっている。バーグマンとモンローを比べるようなものだ。ジャンルが違う。けれども、カップめんにおいては、個人的にはそば派である。鴨だしのが安く買えるのがいちばんうれしいのだけれども、そうでなければ天ぷらそばを買う。天ぷらがいつまでもバリバリした状態であることが望ましいので、袋に入れたままやにわに砕き、少しずつそばに投入しながら食べる。これでいつまでもバリバリだ。書きながら、けっこう幸せを感じているのだが、どうにもこだわりすぎて恥ずかしい姿ではある。

 実は、この原稿は、締め切りを破ってしまった後に書いている。先月からこの欄の更新の日が変わったため、先月から締め切りの日も変わったことを失念したまま、旅行に出てしまったからだ。原稿どうしたんですか? という連絡を頂戴した場所は、盛岡だった。平謝りして、出題されたテーマを確認すると「新蕎麦」がある。わんこそばが名物の盛岡で、そばについての原稿を書いていないことについて問い合わせが来る。なんなのだこの情けないタイムリーさは......。確かにそばはよく食べた。新しいかそうでないかはよくわからないのだが、とにかく、盛岡での4回の食事のうち、3回はそばだった。わんこそばも普通のそばも食べた。このへんはそばにめかぶとか入れるのか! と驚き、帰る直前だからもう食べられないのに、駅のスタンドのそばの写真をいつまでも見上げていた。そばよ。盛岡よ。

 人生で初めて食べたわんこそばは、本当においしかった。「そばを噛んで味わったりしてたら失敗しますよ」と同席してくれた新聞記者さんに注意されたにもかかわらず、もう一杯目から、うまい......、とぼんやりして、ずらずらと並べられたとりそぼろやなめこおろしといった薬味を少しずつ入れながら、味に変化を付けつつ、悠長に執拗に堪能してしまった。わたしが、うまいうまいとうざいぐらいに言いながら食べている両隣で、ストイックにそばを食べ続けていたお客さんが、体感的には一瞬で百杯を突破してしまったりして、自分はわんこそば屋ですら浮く人間なのか、とかすかに悲しみを感じながらも、やはりおいしかったので、うまうまと頑なに言い続けた。最終的には53杯食べた。多くもなく少なくもない、微妙な結果である。

 わんこそばは、食事というかスポーツだった。商談とか打ち合わせにはぜんぜん向かない。でもすごく楽しくて、気が付いたら我を忘れてそばのことばかり考えているし、食後には一緒に食べた人と打ち解けている。このへんの感覚も、かなりスポーツだと思う。そば以外はどうでもよくなる。ひたすらそばを食べていると、とても健全で単純な気持ちになる。もし自宅の近くにわんこそば屋があったら、行き詰まるたびに行ってしまいそうな気がする。

 そんなところに「新蕎麦」というおごそかな言葉を目にし、ますますそばのことで頭がいっぱいになってきている。旅行に行ったので今週末は遊びには行けないのだが、そばだけでも食べに行きたい。もちろん今晩も買ってきた乾そばを湯がく所存である。

 ちなみに、担当さんから出題されたテーマには「栗」もあった。こちらも、栗の菓子パンを日々仕事のお供にしているため、縁が深いので、「新蕎麦」とちょっと迷った。旅行にも持っていったのだが、あまりに好きな銘柄を持っていったため、温存しすぎてホテルの冷蔵庫に入れっぱなしで帰ってきてしまった。賞味期限が切れているはずなので、捨てられてしまうのかなあと思うと悲しい。わたしにもう少し常識がなければ、それ、おいしいんですよ、とホテルの従業員さんに知らせたいところだ。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。