第二十九回

おでんのふところ

 人が、もう世間は寒いのだと感じる兆候はそれぞれにあると思うのだけれども、わたしは断然おでんである。コートとかストーブよりおでん。服装や暖房器具は人それぞれの体感によるものだけれども、おでんの登場は確固たる世論である。コンビニでおでんが売られ始めるとちょっと安心する。おでんは温かく、お財布にやさしい。そして、わたしの弱りきった判断力にもやさしかった。迷ったらおでん。

 わたしがおでんを食べるのは、いつも会社の昼休みだった。コンビニで買っていた。毎日の昼ごはんは、ほとんど一軒のコンビニから調達していて、たまに違うところに買いに行ったりもしたけれども、会社からの距離といい価格といい、いつも行っていたコンビニがいちばん手ごろな店だった。毎日コンビニだと飽きるだろう、と考える向きもあるだろうけれども、食品の種類がものすごく多く、頻繁に商品が入れ替わるので、飽きるということはあまりなかった。むしろ、選択肢がありすぎるので、今日はいったい何が食べたいのか? と自問するのがわずらわしかった。昼休みの一時間前になると、昼ごはんについてひたすら悩み始めるのが日課だった。食べたいものがあったらそれでけっこうなのだが、あまり何も欲しくないけれども、お腹だけは空いている、という日が厄介だった。

 そういう時におでんがあると、とりあえずおでん、となる。比較的安く買えることと、そしてやっぱり、じかにあの枡のようなところから選んで買えることがうれしい。お湯をかけるだけ、とか、レンジで温めてもらうだけ、よりは、食事の楽しさがある。おつゆを多めにもらって、ゆでうどんも買う。おでんの中に投入するのである。最初は、好きな料理本にそのことが掲載されていて、個人的にやっているだけだったのだが、同じようにおでんとうどんを同時に買って帰る人がたくさんいたりしたのか、いつの間にかうどんもおでんの具として加えられるようになった。更に、フリーズドライのネギまでもらえるようになり、おでんをめぐる状況が年々変化していることを間近で見守っていた会社での数年間だった。

 おでんは、関西では関東煮という。かんとだき、と読む。母親は、本当によくお好み焼きや焼きそばを出す人だったのだが、関東煮もやたら作っていた。理由はよくわからないのだが、具がそんなに高価ではなく、煮るだけで作り置きもできるからだろう。しかし、家の関東煮とコンビニのおでんは、わたしとしては似て非なるものである。関東煮は、つゆがかなり濃い色をしていて、いかにも関東煮専用といった趣があったのだが、コンビニのおでんのつゆは、なんだか何を入れてもそれなりにおいしく食べられそうである。実際、関東煮にロールキャベツなんか入っていた試しはないけれども、コンビニでは、もうかなり長い間、定番として売られている。ラインナップに入れる時に、いろいろな議論があったはずだロールキャベツ。あれはケチャップで食べるものではないの!? とか、横文字ものをおでんに入れるなんて! などという反発がおそらくあったことをよそに、すっかりあの枡の中に居付いてしまった。わたしもよく食べた。更には、あらびきソーセージとかハンバーグなんていうものまで、メンバーに加わっている。その一方で、大根やがんもどきやこんにゃくのような、おでんの具であることが食材の主たる役目の一つだというようなものも、しっかりそこにいる。新旧の具が混在してぐつぐつしているあの枡の世界の懐は、意外と深いはずだ。

 おでんおでんと書いていたら普通に食べたくなったので、この文章を書いているとちゅうにおでんを買いに行った。会社をやめて以来初めてである。おでんを食べなくなって、まだ2年も経っていないはずなのだが、具の種類がますます増えていて、お品書きを見ているだけでふらふらになった。あのつゆの汎用性はいったい何なんだ。すっかりくじけてしまって、一度諦めて店の外に出たぐらいである。しかもちょっと高くなっていた......。なんだったんだろう、あのお財布にやさしいというイメージは。もしかしてそんなに70円均一をやっていたのか会社の近くの店は。枡も大きかったしなあ。

 しかし、買って帰って食べてみると、やっぱりおいしい、懐かしい味がする。午後からも仕事だけれども、とりあえずこれ食べたら20分寝れる......、という地味な安堵が甦る。少し休んだら、またこの文章を書こう。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。