妙な物言いかもしれないけれども、風邪をひくのは悪くないといつも思っている。ちょっとした風邪なら、ずっとひいていたいぐらいだ。風邪をひくと、頭がぼうっとして、あまり余計なことを考えなくなる。刺激の少ない食事やビタミンC、さっさと横になること、そのお供にはテレビがいいのか、それとも雑誌がいいのか、などということぐらいで頭が満杯になり、普段から頭の中で幅を利かせている無駄な心配や不安がどこかに行ってしまう。また、外で風邪を自覚した時は、家に帰って休む楽しみが何倍にもなる。仕事や遊びによる体の疲れには、ときどき目の痛みが伴ったり、興奮が長引いてなかなか眠れなかったりするのだけれど、風邪の場合は、風邪薬を飲んだのち、速やかに眠れる。すこやかと言ってもいい。風邪をひいてるんですこやかなわけはないんだが。
代表的な風邪の恩恵というと、早退である。早退は、学校であっても会社であってもいいものだ。なんだか体がだるくて、頭もぼうっとしてくるとする。小学生の時なら保健室へ行き、体温を測ってもらう。37度をぎりぎり越えていたらしめたものだ。スキップしたい気持ちで先生のところに行き、熱があるのでうちに帰ります、と言う。会社でなら、どうしてもやらないといけない作業が残っている時などは、こんな時になんだよ! と歯噛みしながら定時まで仕事を続けるのだが、明日に回せそうな作業しか残っていなければ、大変申し訳ございませんが、と正午前に部長に相談に行く。部長は、おそらくさまざまな訝りを飲み込んで、「早よなおせよ」とだけ言って、わたしがいつもより恐る恐る差し出す日報を受け取ってくれる。そして、昼ごはんどこで食べよかなあ、などと考えながら帰る。真昼の帰り道の日光は、妙にさんさんとしている。会社にいる時の午後は、ほとんどカタツムリのようにのろのろとしか時間が進まないのに、早退した日はびっくりするぐらい簡単に定時(午後5時半だった)になる。なんら有意義なことができなかった、と時計を眺めながら愕然とする。風邪だからそんなことできなくていいのにもかかわらず。
熱が出ても37度までしか上がらないような、ちょっと自覚症状がある段階で薬を飲んだらすぐに消えるような「穏やかな風邪」を待ち望んでいるのだと思う。が、周囲で危惧されるのは胃腸風邪だとかインフルエンザだ。猛威としか言いようのないものだ。どちらも、2年に一度は患っているので、辛さは知っている。「しんどい......」と本当に口に出して言ったり、足元がふらついて、自宅の階段で上から下まで転がり落ちたりする。余談だが、階段から落ちた2年前のインフルエンザの経験により、わたしはどこでもとても慎重に階段を降りるようになった。もはや、絶対に胃腸風邪やインフルエンザになりたくないので、うがい手洗いは欠かさない。そのせいか、「穏やかな風邪」もあまりひかなくなった。いや、常にだるかったりぼうっとしていたりと、よく風邪気味の状態にはなる。しかし、体育を見学できるかできないか微妙なところの「風邪気味」と、確実に早退できる「風邪ひき」の間には、厳然たる線引きがある。あとちょっとで風邪と名乗れるのに、おしい! という状況は、ただしんどいけど働かないといけないだけのことなので、とても迷惑である。わたしが欲しいのは、もっとオフィシャルな風邪なのだ。熱が37度ぐらいで、今日はうどんを食べたらすぐに寝ます、という態度が最も妥当な。
帰った、帰ったよー、しんどかったよー、とぶつぶつ言いながら靴を脱ぎ、うがいと手洗いをして、コップ一杯の水を飲む。うどんは帰り道で食べた。部屋に戻るとすぐさま寝巻きに着替え、電気を消してスタンドを点灯させ、肩のこらない食べ歩きの本や図鑑などをぼんやり眺める。もしくは、録り置いていた推理ドラマなどを再生させ、テレビのオフタイマーをかける。そしていつの間にか寝入る。今日は風邪なので寝ます。明日ましになったら、今日の分の仕事をします。
以上、わたしの理想とする風邪の状態を書いてみた。とても単純なようでいて、その身体と精神のバランスは複雑である。狙ってその状況に持っていける器用さは自分にはないので、ただ日々妄想するのみだ。

