たけのこについて、一般の人々が考えている時間は正味のところどれだけあるだろうか? 知名度のわりに、スーパーの野菜売場ではそんなに見かけないたけのこである。キャベツやきゅうりやにんじんほど、口にすることはなかったりもする。なんだったら、パプリカやヤングコーンやズッキーニの方がよく食べているという人もいるだろう。
有名無実化も(勝手にわたしの中で)危ぶまれるたけのこ。たけのこに関する身近な話題とは何か? えぐみが強くて、食べたらなんとなく落ち着かない気持ちになるたけのこご飯以外では、きのこの山対たけのこの里論争を思い出す。論争というか、先ほど検索にかけたら「戦争」という言葉まで出てきて物騒なのだが、実はこの一年ぐらいの間に決着がついているそうだ。勝敗は、「たけのこの里」が圧勝であるとのこと。良かったじゃないか、たけのこ、と安堵したのもつかのま、「たけのこの里」はチョコのかかったクッキーであって、たけのこではないということに気付き、もしかしたら本家たけのこは、「たけのこの里」に普及度で負けているのではないかと更なる危機感を煽られる(ちなみにわたしは、長い間「たけのこの里」の方が好きだったが、最近「きのこの山」に鞍替えした。あの軸のボリボリ感は結構得難いもののような気がするので)。
たけのこは有名無実、と暴言とも言える論旨を展開するわりに、わたしは今年、思い出したようにたけのこにこだわっている。去年一度だけたけのこを食べる機会があって、それがものすごくおいしかったからである。花見の帰りに寄った店で食べた、焼きたけのこにしょうゆをつけたものが、どうもふとした瞬間に思い出される。その後、スーパーにたけのこを探しに行ったりもしたのだが、どうしても予算とたけのこの価格が折り合わない。たけのこを買うのをためらうって、どういう夕食の予算なんだよとは言わないでほしい。
この、それがどうしたという話にはまだ続きがあって、わたしはその後、4月の終わりに和泉砂川というところに藤棚を見に行って、途中で寄った八百屋さんで、価格と量に納得のいくたけのこを見つけて、即購入したのである。しかし、袋いっぱいのたけのこを持ち帰ったものの、どうしたらいいのかわからなくなり、アク抜きなどを母親に任せているうちに、たけのこは、たけのこご飯として料理され、そちらにくらくらしているうちに、しょうゆをつけた焼きたけのこへの興味を一時的になくしてしまった。そして再び、そうだたけのこ、となった時期には、またお財布にちょっと厳しい袋入りのたけのこしか残っていないという状態になっていた。
そうなのだ。知名度に反して、たけのこの旬は短く、食べる機会も少ない。春の食べ物なら、いちごの方がよほど食べる機会があるだろう。まつたけも、高い高いと言われながら、その高価さゆえに気にかけられ、年に5回ぐらいは口にする機会があるだろう。しかしたけのこ。アクは抜かないといけないし、相場もわかりにくい上、花見の季節にふと現れ、数十日のうちに気配を消す。たけのこほど近くて遠い食材はないのではないか。
存在は知っているが意外と身近でなく、近付きすぎてもうんざりしてしまう、蜃気楼のようなたけのこ。しかしわたしは、人生のかなり早い時期で、たけのこについての知識を身に付けた。幼稚園の年長組の時の5月にもらった絵本で、たけのこが特集されていたのだった。特集というか、一冊丸ごとたけのこについてである。ほかのテーマが、「パンこうじょう」とか「にんげんのからだのしくみ」であったことを考えると、いかにたけのこが大きな扱いであるかということが窺い知れる。絵本によると、地面から突き出ている、見た目にたけのこらしいたけのこは、もう実は固くて食べられなくて、ちょっとだけ頭を出している程度のたけのこが食用になる、とのことであった。
わたしは、そのたけのこに関する本が好きで、かなりよく眺めていた。なんといっても、あの断面がすばらしいと思っていた。プレーリードッグの住処にも匹敵する断面だろう。わたしはつくづく、たけのこが建造物ではなくて、食べ物であることを残念がった。天井の低い階が連綿と続き、高層になるにつれ狭く尖ってゆくたけのこマンション。竹は、広さに反して天井が高すぎる感じがするので、やはりたけのこである。あんなに天井が低いと、家賃もそんなに高くなくて、2フロアを分譲してもらったりもできそうだ。よし上の階の半分を図書室にするぞ。丈夫な皮に包まれた外側は、コンクリートよりも暖かそうだ。
しかし、人はたけのこには住めない。たけのこがまた、近付いては離れてゆく。

