第三十九回

非成果主義的GW

 会社に入って、夏休みも春休みも冬休みもなくなってしまった人々にとっては、まとまった休みというと、ゴールデンウィークとお盆休みと正月休みが頼みの綱なのではないか。なのではないかって、実際わたしも2年前までそうだったのだが、個人的には、9月から11月にかけて散見される祝日もよろしいことを書き加えておく。土日と祝日を有給休暇でつないでみよう。おお、連休だ、うれしい。

 ......有給休暇妄想に浸ってしまった。今のわたしにはそんなありがたいものはない。フリーランスになって、会社に行っている時よりもそりゃ時間はあるし、体を休める機会もあるけれども、だって会社員だもの、という安心感がなくなってしまった今、世間が休みの日にも仕事をしていることは多い。会社員だった頃は、日曜から木曜までしか原稿を書かなかったのに、今はほぼ毎日なにがしか書いている。

 そんなわたしのぐちはどうでもよく、連休界の横綱はやはりゴールデンウィークである。みんなうきうきと旅行に行ったりするのだろう。しかしわたし自身には、ゴールデンウィークにあそこに行った、ここに行った、という実績はほぼない。ここ数年で覚えているのは、自宅からかなり遠いIKEAに自転車で行こうと決意したのに、道に迷ったことぐらいである。大阪のIKEAは、木津川という川の向こうにあるのだが、その川沿いの風が異常に強くて、5月だというのに「寒くてつらいのでこれ以上迷ったら遭難する」という理由で、家の近所のスーパーにだけ寄っておめおめと帰った。ほかは、ゴールデンウィーク中の昼間に毎日『相棒』の2時間スペシャルをやっている年があったので、たぶん全部観た、と連休明けの出勤日の昼休みに、同僚さんに話したことが思い出される。『相棒』を観ながらわたしは、パソコンのブラウザで、ひたすらお客さんをテーブルにつかせて料理を運ぶ、というだけのゲームをしていた。さすがに夜は、友達と食事に行ったり、原稿を書いていたと思う。

 子供の頃は、休みというだけで、友達と遊んだり読書をしたりゲームをしたり、いろいろなことをやって楽しかったので、テレビなどで、やたらに海外に行ったり、遊びに行って渋滞に巻き込まれたりする人たちの気持ちがわからなかったのだが、あれはたぶん、自転車でIKEAに行けなかったり、テレビを観ながら2時間以上ブラウザゲームをしたりして、いったいこの休みは何だったんだ? と愕然とすることを防止するためだろう。休みに対する成果主義を突き詰めると、海外旅行に行きつくのではないか。

 ただ、ほぼ毎日何らかの作業を残している身になってみて、何だったんだ? という現象は、本当に良くないのだろうか、というようにも考える。個人的には、「意味のないことに耐えられない」という心の状況が、なんだか苦痛だ。ぼけっとテレビを観ているようで、編み物や針仕事をせずにはいられなかったり、それらの負荷が大きいなら、片手間にやっているビルを造るアプリを見張ったり、語学のテキストをちょろっと読んでみたりする。何か微小なことでも、成果の出ることをやりたいのだ。だめだなあ、と思う。そういう時は、無性に電車に乗りたくなる。ひたすら景色が見たい。べつにいい景色じゃなくていい。流れていくものをただ眺めたいのだ。

 子供の頃の時間は、電車の景色のようだったと思う。もうちょっと意味のあることをしたい、とあがくのではなく、ただ、起こることを受け入れて楽しんでいた。こどもの日に、子供の頃の自分が何をしていたのか、わたしはほとんど思い出せない。ただ、五月人形が部屋に飾ってあって、おやつを食べて、おもちゃを買ってもらって、近所の友達と遊んで、楽しかったな、と思う。今はもう子供ではないのだが、こどもの日は、こどもの日というだけでなんだか楽しい。ほかに、連休が近くなると、幼稚園で柏餅がもらえるのもうれしかった。すごくおいしいと思っていたわけではないのだが、あの、葉っぱをむいていくとお餅が出てくる、という状況を純粋に楽しんでいた。

 大人になると、意味のないことを楽しめなくなるのを感じる。でもどうだろう、柏餅の葉をめくること自体が楽しかった、という気持ちを思い出したい。今年のゴールデンウィークは、柏餅を買ってきて、お茶を淹れて、窓を開けてぼうっとしよう。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。