第四十二回

雨のアーケード

 個人的に梅雨というものは、あいまいな5月の終わりから、気温も光も蟬もとにかく何もかもが押しつけがましい夏に入るまでの、ちょっとした猶予期間のようなものなのだった。そろそろ夏か......、という毎年定期的にやってくる失望の前の、短いおまけのような梅雨。5月の終わりに、もう夏だし、という諦念と共に出してきた夏用の軽装のまま出て行ったら、意外と寒くて、がたがた震えながら逃げるように帰宅する梅雨。梅雨は雨のおかげで涼しい、というか、寒いことさえある。梅雨の時期に、ハーフパンツに半袖で高校に行ったところ、一日中どうにもならないぐらい寒かったのがトラウマになり、それ以来、6月になってもストーブをしまわなかったり、長袖の上着を常備していたりする。

 そんな目に遭いつつも、梅雨はとても好きな時期である。一年でいちばん楽しみにしているといっても過言ではない。6月に祝日がない理由は、わたしにとっては、「梅雨がおもしろいから仕方ないよな」である。最近は、ゲリラ豪雨などで水害が引き起こされ、大阪でも梅田の繁華街や地下鉄の駅が浸水したりするので、梅雨が楽しみだと発言することに若干はらはらするものを感じる。なんというか、よく遊んでくれて好きだった親戚のお兄さんやお姉さんが、高校に入っていきなりグレたので、自分が非難されるわけじゃないけれど気が気じゃないとか、好きな選手のたまたま素行が悪い瞬間が報道された時のようでもある。本当はそんな人じゃないんです! と言いたい気分だ。わたし以外の雨が好きな人も、同じ気持ちかもしれない。我々を安心させるために、今年はどうか悪さはしないでほしいものである、梅雨。この原稿を書いているそばからすでにさまざまなことが起こっているわけだが。

 雨の何がおもしろいのかは、自分でもよくわからないのだが、夜とは違う雨の時間の独特の暗さや、ざあざあという音や、単純に、空から水が降ってくるという変わった状況が好きなのだろうと思われる。また、わたしは長いこと、アーケードのある商店街という、雨に対してバリアフリーな環境に住んでいたので、そんなに不便を感じなかったのである。わたしの部屋は、アーケードの側にあったので、空の様子がわからず、音がしなければまず傘を持って家を出ようと思うことがなかったのだが、それでもアーケードがあるため、雨でもあまり不自由な思いをしないので、天気予報も30代半ばになるまでちゃんと見たことがなかった。今考えると、なんという子供ぶりかと思う。アーケードのある商店街では、どれだけ強い雨が降っていても、傘を持たないで買い物に行ける。また、大阪の繁華街は地下が発達しているので、そこそこ強い雨が降っている日に傘を持っていなくても、なんとなくひどい目に遭わずに過ごせてしまったりする土地柄でもある。会社も駅からそんなに遠くなかったので、傘を持たないで家を出て雨が降り出したら、民家や店先の庇(ひさし)に入りながら小走りで出勤するということをしていた。

 強い雨がアーケードに当たると、ばらばらという音がするのがおもしろかった。節分の豆が空から落ちてきているんじゃないかというような音だ。別にそうでない場所でも、雨が窓に当たると似たような音がするということは、引っ越してわかったのだが、あれほどの大きな音ではない。あの音を懐かしがりながらも、アーケードに守られない住宅地に引っ越した今は今で、それなりに楽しく雨の日を過ごしている。窓を開けて空気を入れ替えるのが好きなのだが、雨の日でも、窓の周囲のものに布をかぶせて開ける。去年この欄で自慢していた、ゴッホの星月夜の傘も健在で、それを差して夕方の買い物に行く。夕食後に仕事が残っていたとしても、どこか気分が良い。

 雨の日の楽しみは、家に帰るというそれだけの状況が幸せに思えるということでもある。外出中に屋内にいるのもいいのだけれども、帰り道の心配があるから、やはりここは家がいいだろう。お茶かコーヒーを用意して、お好きな方はお酒でも呑んで、読書でもゲームでもテレビでもネットでも、普段やっている好きなことをする。それだけのことが幸せに思える。梅雨は、ただの当たり前を過ごすことの喜びを見直す季節でもある。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。