第五十回

消えた30万円の謎

 10月17日は貯蓄の日だという。自分が、大人になった、ではないけど、ある程度社会的な人間に届いたな、という実感を得たのは、親から貯金通帳を持たされた時のことだった。高校1年だった。なぜかまず、定額貯金の通帳をもらった。お金が貯まったら、ここに貯金するのよ、と言われた。貯金したら半年は引き出せない。こいつはクルクルパーだから、すぐ引き出せてしまうような口座ではだめだ、と母親は判断したのかもしれない。貯金通帳というものを持ったことがないわたしは、「お金を入れたら半年は引き出せない」という状態を、この世界のスタンダードと考え、小遣いの余りや、短期アルバイトのちょっとしたお金が入る度に、千円単位でちびちびと貯金した。お金が、財布にある不安定な現金から、しっかりとした数字に変わっていくことが何よりうれしかった。

 その後、郵便局の普通口座が母親から解禁になり、わたしのそれまでの貯金の常識はくつがえされた。入れたらいつ出してもいい。えらいこっちゃである。勤勉に定額貯金をしていたわたしは、便利な普通口座に夢中になり、最初に手に入れた定額貯金の通帳は過去のものとなった。

 話は変わるが、貯蓄というと、どうしても思い出してしまう出来事がある。10年は前のことだと思う。「最近ほんとにだめなんですよ、30万がどっかいったんですよ」と、会社の納会で打ち明けたのだ。その相手になった2つ目の会社の人は、おそらく忘れているだろうけれども、わたし自身はしつこく覚えている。だって30万がなくなったのだ。一大事だ。

 ずいぶん久しぶりに記帳に行くと、思ったより残高が少なかった。当時も、わたしのメインの口座は、郵便局のもので、会社から振り込んでもらっている銀行口座にある程度貯まると、郵便局に移すということをずっとやっていた。自分の行動範囲に郵便局のATMが多いのと、クレジットカードの引き落とし口座が郵便局のものだからである。

 年の暮れも押し迫ったある日の夜中、しげしげと貯金通帳を眺めたのだが、やっぱりどう考えても30万ぐらいない。日付とお金の動きを仔細に追うものの、数字に弱いせいか、いまいち理解に苦しむ。問題が発覚する1年前に辞めた、最初に就職した会社から振り込まれた月給は、すべて郵便局の普通口座に移動させていたので、その総額について、何か勘違いをしていたとしか思えない。しかしである。わたしはかなりはっきりと手持ちのお金の額を記憶しているつもりだった。ぜったいに、今の残高よりも30万多く預金していたはずなのだ。どういうことなのか。

 そして歳月が流れ、30万円問題は、「よくある自分の勘違い」ということで片づけられる運びとなった。そうだわたしはお馬鹿さんだ。貯蓄額を間違えるなんてお茶の子で起こりうる。自分の頭なんて信用するな。

 それがである。かの忘れ去られていた定額貯金の通帳が、引き出しの奥から見つかったことで、30万円問題は新たな展開を見せた。どうも懐かしい黄緑色の表紙を、「あの頃は親にだまされてたな、フフ」などとひとしきり眺めたのち、また口座を使ってみようと利率を調べて、あまりの低さに落ち込み、通帳を開きもせずにまた引き出しの奥にいったんはしまった。さらにその後、引き出しの整理のために通帳を取り出し、なにげなくめくってみて驚いた。そこに入金されていたのである。わたしが前の会社の納会でKさんに愚痴った、消えたはずの30万円が。

 布団の上であぐらをかいて通帳を眺める、という、「30万がない」ということを確認した当時とほぼまったく同じ体勢で、十数年後、「30万がある」ということを確認したわたしは、再会を喜びながらもおののいた。なんであなたここにいるのよ。日付を見ると、最初の会社から次の会社に移るまでの失業中だった。最初の会社で貯めたお金を切り崩しすぎないために、半年引き出せない定額貯金の口座に移したのではと推測するが、真相は闇の中である。

 ともあれ、最近判明したこの事実に、わたしはどきどきしている。それは過去の自分からの贈り物であると同時に、「30万をどこにやったかわからないずぼらな人」の烙印でもあるからである。このところ、毎日その定額貯金の通帳を眺めている。もし郵便局に行って、「このお金なら、忘れられていたんで無効になりました」なんて言われたらどうしよう。30万円はどうもあったらしい。しかし、問い合わせたりなどしてその実態を確認することは、どうにもできない。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。