もう長いこと、自宅に庭があるという状況にないのだが、1歳から6歳まで住んでいた一軒家には、細長い庭があった。とても大きな庭だったように思う。門から玄関までは、緩やかな階段になっていて、その両側には、園芸が好きな祖父の手による、さまざまな植物が植わっていた。おじいさんの植えるものなので、基本的にはそんなにぱっと見て華やかという感じではないのだが、バラがちょっとだけ咲いていたことを覚えている。あとは、クチナシとツバキとキンモクセイである。特に、庭を通るたびに目に入るのはキンモクセイだった。わたしは子供心に、もっとチューリップとかパンジーとかペチュニアとかを植えてほしいんだけど、とかすかな不満を感じていたが、訴えることはしなかった。
キンモクセイがたくさん植わっていたのは、母親の趣味だったようだ。キンモクセイは、小学1年にもならない子供からしたら、花なのか、花のなりそこないの小さい植物なのかわからないほど存在感の薄い花だったが、ある日母親に、これはキンモクセイといって、とてもよろしい花である、と紹介され、やたら香りの強い、そのあまり花の醍醐味がないように感じる花を、どうもいい花らしいと認識した。人生で初めての、そしてそれからしばらくの間の主な用事は、その庭で栽培していた三つ葉を、お吸い物の具にするために採りに行くというものだったが、私は三つ葉を収穫しに行くたびに、キンモクセイの横を通って、いい匂いだけど地味だなあ、とちょっとがっかりしていた。三つ葉の用事は、そのうちに、ネギを採ってきてちょうだいに変わった。
母親は、かなりのキンモクセイ好きらしく、トイレに置いてある芳香剤「サワデー」すらもキンモクセイの香りのものだった。わたしは、母親について買い物に行くたびに、なぜ絶対にキンモクセイなのか、バラとかではいけないのか、と疑問に思っていたが、何しろ子供には母親のやることは絶対なので、何か決まりでもあるのだろうと黙っていた。もしかしたら、「たまにはバラにしてくれ、ピンク色なのがいいから」と主張したら通ったのかもしれない。けれども母親は、そのバラの「サワデー」がなくなると、またキンモクセイの「サワデー」を買ってきただろう。庭にはキンモクセイだし、トイレには「サワデー」だし、その家はそこらじゅうがキンモクセイだったわけである。
それにしても、36歳にもなって改めて、「サワデー」という語感の異質さに立ち止まってしまうのを感じるのだが、調べてみると、公式には、「さわやかなDAY」を略してとのことなのだが、ほかに、タイ語の「こんにちは」である「サワディー」に由来している という説もある。どちらでもいいけれども、「サワデー」って素敵な語感だと思う。子供の頃の私も、その硬軟取り混ぜたかのような語感に惹かれていたのか、トイレに置いてある「サワデー」に興味津々であった。というか、しょっちゅう分解を試みては失敗していた。傘のようなふたのような、上に上がる部分を引っこ抜いて、中のゼリー状というかプリン状の部分を好きなだけえぐりたいというのが、わたしの子供時代の願望の10位以内に入っていたと思うのだが、傘は結局取れず、やっと開いた下の方の隙間から指を突っ込んで、いい匂いのするプリン部分にちょっと触るのが関の山だった。
その後、「サワデー」を使用しなくなっても、うちのトイレの芳香剤は、キンモクセイと相場が決まっていた。母親に任せておくと何でもキンモクセイを買ってくるようなのである。なので、「キンモクセイはトイレの匂いがするよね」というよくある言説には、賛成ではあるのだが、それだけでは何か、キンモクセイを決定づけるものには至らない。花が地味だから、余計にそんなことを言われるのだ、自業自得だ、とおっしゃる向きもあるかもしれないし、わたし自身もつくづく、「サワデー」の紙パッケージを見ながら、残念に思っていた。
それでも、バンドのキンモクセイはキンモクセイと名乗っているし、漫画の『ピンポン』には、登場人物の一人であるドラゴンが「金木犀の香りがするね」と言う印象的な一コマがある。キンモクセイは秋のどこかの隙間に咲き、その香りは町を包み込むようにゆっくりとひろがって漂う。それは、季節が暮れてゆくことをただ優しく見守っているようにも思える。見返りも求めずに。

