3月20日はLPレコードの日だという。わたしが小さい頃にたくさん持っていたのは断然カセットで、レコードは持っていなかった。母親も父親も、そんなに音楽が好きな人ではなかったので、レコードは一枚もというぐらいに所持していなかったと思う。だから、レコードはわたしには縁のないもののはずなのだが、一人だけレコードをたくさん持っていた人を知っている。父方の祖母である。
8歳で父親と別居したので、父方のおばあさんとはあまり縁がなかった。呉服屋をやっていて、けっこう遊びに行っていたのだが、お店のことをしなければいけないせいか、母方のばあちゃんとよく行ったように、買い物や食事に出掛けたということが一切なかった。お店も、子供がそのへんをうろうろしていてはいけない性質のものだったように思う。母方の祖父も店をやっていて、そこではわたしは絵を描いたり祖父としゃべったり好き勝手にやっていたが、父方のおばあさんの店で遊ぶ、ということはほとんどなかった。呉服という高価なものを扱っていたせいだろうか。呉服屋の店舗兼住宅の周辺は、特にどうということのない住宅地だったので、子供としては、商店街でにぎやかだった母方の祖父母の家の方が好きだった。
とはいえ、今考えると父方のおばあさんの家も相当興味深い。まず、太ったペルシャ猫を2匹を飼っていた。2匹は、専用の部屋を与えられており、部屋の中心にでんと構えているか、のっそりのっそりと歩き回って、大変鷹揚に振る舞っていた。着物を取り扱っているせいか、他の場所にはあまり出張していないようだったが、とにかく2匹は泰然としていた。彼らは、子供のわたしにも撫でさせてくれて、すごくおとなしいのだが、もったりとした体つきや平たい顔、白くて妙に長い毛、などとやたら威厳があったので、かわいい、という感じではなかった。絵本で見る親しみやすい猫と違うな、とずっと思っていた。けれども、父方のおばあさんの家で見て以来、わたしは一度もペルシャ猫を飼っている人に会ったことがないので、あれは本当に貴重な機会だったのだ、と今は悔やまれる。父親と切れてもペルシャ猫とはつながっておきたかった。小児喘息を患っていたので、母親はその2匹の猫を迷惑そうにしていたが、わたしにはあの猫たちが、まるでちゃんとした人間の大人のように意思を持った立派な生き物として見えていた。
おばあさんは折り紙が得意だったのか、折り紙のくす玉をお店で見かけることもしょっちゅうあった。わたしも折り紙の好きな子供だったのだが、くす玉は折れなかったので、折り方を教えてくれ、と頼んだこともあるのだが、もうちょっと大きくなったら、とよく言われていた。結局、その姿を父方のおばあさんに見せる日は来なかったのだが。
呉服屋をやっているためか、ずっと着物を着ていたおばあさんは、娘(父の姉)と同居していて、2人ともよく煙草をふかしていた。なのでやはり、喘息持ちの子供を父親の実家に遊びに行かせることを母親は好いてはいなかったのだが、おばあさんは、お店のことをやりながら、おばあさんなりにわたしや弟にかまってくれたように思う。ただ、そのバリエーションは母方のばあちゃんほどではなくて、常に、はちみつトーストを作ってくれるか、レコードを聴かせるかだった。コレクションというほどではないものの、かなりの枚数のレコードが家にある中、あまりおもしろいとは思えなかった童謡のLP盤をよくかけてくれたけれども、わたしは、おばあさんが「シャンソン」と呼んでいるレコードを聴かせてもらう方が好きだった。でも、今シャンソンを聴くとあの曲はシャンソンぽくない感じもするし、あれは何やったっけなあ、とずっと思っていたのだが、それらしいメロディを大人になってから耳にして、YouTubeで検索してみて曲が判明したのである。「夢見るシャンソン人形」だった。懐かしかった、というより驚いた。あの家で、誰があの曲を聴いていたのだろう。おばあさんか、父親の姉か、それとも、父親が実家に残していったものだったのか。いや、外国語の歌は聴かない人だったしなあ。よもやあの2匹のペルシャ猫か? あの猫たちのたたずまいならありうる。
単にものすごく流行ったから持っていた、のかもしれないけれども、おばあさんはどうしてわたしにあの曲を聴かせたのだろう、と思う。家に行くたびに、「シャンソン」をかけてくれたのである。レコードの束のいちばん手前にあったのだろうか? それとも、おばあさんがあの曲を好きだったのだろうか。
おばあさんは、わたしが20歳になる前に亡くなって、父親の姉の行方も知らない。おばあさんは、商売をしているせいか、妙にきりっとしていて、あまり感情の起伏のない人だった。怒られた記憶もないけれども、笑顔も思い出せない。けれども、今は尋ねたいことがたくさんある。猫や折り紙やおいしいはちみつトーストの作り方や、あの曲をどう思っていたのかということについて。

