第六十四回

薔薇との距離感

 薔薇って書けますか? わたしは書けない。あまりバラという花に思い入れがないからだろうと思う。書こうと思ったことさえない。これ明日のテストに出ますから、と言われても、勉強を後回しにして結局覚えない、という処遇にしてしまうだろう。「薔」も「薇」も画数が多くて相当バラ感あるよな、ということだけはわかるな、というところで蓋をする。しかも悲しいお知らせなのだが、調べたら「薔」は「ば」とはふつう読まないようだし、「薇」も「ら」の読み方では使わないようだ。それぞれ、「ショウ、ショク、ソウ、みずたで」「ビ、ぜんまい」などと読むそうで、基本的には「薔薇」を「ばら」と読むのはバラの花のことだけのようだ。大変な特別待遇ではある。「薔薇」は「しょうび」と読んでもいいようである。「薔」は高笑いをしている人のイメージもよぎる。オホホホホ、って感じだ。そうやって少しでもバラと自分の距離を縮めてみようとするのだが、依然わたしの気持ちは遠巻きなままだ。

 わたしがどうもバラに距離感を感じている、ということはおわかりいただけたかと思うのだが、それはわたしの家族も同じなようだ。わたしが最初に暮らした家の庭には、バラが植わっていたのだが、その家に暮らしていた数年間を通して、バラを見かけたのはバラの咲く時期に毎年一輪きりである。庭のことをやっていたのは主におじいちゃんだったが、どうやらおじいちゃんはバラにはあまり執着がなかったようだ。母親も、バラにはあまり興味がなくて、キンモクセイやクチナシが好きだったように思う。園芸界のことはよく知らないのだが、バラ派に対抗しうる勢力があるとすれば、それはラン派だろう。おじいちゃんは断然ラン派だった。ランは今も母親の手によって育てられている。わたしはランのよさもいまいちわからないので、うちの家系におけるランを育てる習慣は、このまま継承されない可能性が高い。

 とは言え、ランはやはりややマニアックで、バラのほうがぜんぜんメジャーだと認めざるを得ない。バラはメジャーなうえに、なんだかすごく特別扱いされているように思える。花弁がすごく複雑だからか。パンジーがプリントTシャツだとしたら、バラはオートクチュールのドレスであると言えよう。実はわたしはパンジーのほうが好きなのだけど。バラを好きだと言うのは、わたしにとってはなぜだか勇気のいることだ。なにか花にも、キャラクターだとか分相応という感覚があって、バラは自分からは遠いものだ、と思ってしまう。

 そんなわたしだが、バラが好きな友人がいる。アクセサリー制作が趣味の彼女のバラへの信頼をあらわすエピソードに、新卒の就職活動でストレスが溜まりきっていた時に作っていた、すごくごつくて華美なチョーカーに「血と薔薇」という名前をつけていたというものがある。それは本当に豪華な代物だったので、今もたまに「血と薔薇」を見せてくれ、と友人にせがむ。友人はその後もアクセサリーを作っているが、「血と薔薇」を超えるアグレッシブな作品はないと思う。そのぐらい、友人は疲れていたのだろう。

 バラに対して遠巻きな態度を取り続けるわたしだが、春と秋の年に2回ぐらいバラ園に出掛けることがあって、一緒に行くのはその友人である。わたしは、桜の自暴自棄と言っていい景気の良さに慣れているため、バラの「一輪一輪ちゃんと見てちょうだい」というような粛々とした態度におののきつつ、ううむよくできているな、と感心しながら見て回る。じっと見ているうちに、改めて、よくこんな複雑なことやるよな、自然、という気分になってくる。その友人とバラ浸けになっているうちに、親近感はわかないものの、とりあえず、尊敬の念は芽生えてくる。

 わたしは桜と藤が好きなのだけれども、彼らは小さい花の集合がいっせいに咲くことによってスケール感を出すことに成功している。しかしバラは、一つ一つの花で真剣勝負をしている。そこに自分は距離を感じるのかもしれない。すみません、わたしは満開の花木の下で、うひょーとか言いたいだけの人間なんです、すみません。バラはど派手な花だが、同時に緊張を強いる静のニュアンスを持った花だ。しかもトゲまである。やはりどう考えても、何か「花」の範疇を越えているように思える。

 わたしがバラに気軽に接する日は来るのか。それはわからないけれども、「ガンズ&ローゼズ」と並立させるよりも、「ザ・ストーン・ローゼズ」と石化したバラを思い浮かべる方が美しい、ということは三十歳を過ぎてからとみに思うようになってきた。花の美しさが自分の中に入ってくる感じと、言葉の感触を十全に受けとる感じは比例するのかもしれない。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。