第六十五回

たまねぎの底力

 自分が作るドライカレーが好きなのに、ここ10ヶ月ほどまったく自炊ができず、作れずにいた。10ヶ月もやっていない自炊を「している」という顔をするのは甚だ図々しいなと思うのだが、とにかくある日、どうしてもドライカレーが食べたくなって、時間を捻出して作ることにした。相変わらず余裕はないものの、今日はドライカレーの日だ、と勇んでスーパーマーケットで食材を買い込んだ。参照している作り方では300グラムとなっているのに、近所のスーパーマーケットの売り方の単位の問題で、いつもは220グラムしか買わないひき肉も、少量パックを足して合計340グラム買った。ドライカレーの日だから、力が入っていた。40グラムだけひき肉を残しても使い道がないので、全部投入した。こんなに肉を入れたら、さぞありがたいドライカレーになるに違いない。わたしは出来上がりをわくわくと待った。

 しかしである。自分が以前作っていたものほどはおいしく思えないのだった。なんでだろう。肉がたくさん入っていたら、他の人はともかく肉の好きな自分好みにはなるのではないのか。作ったその日は、なんか体調でも悪かったんだろう、と解釈して、その後数回に分けて慎重に味わって食べたのだが、どれだけ食べても普通だなとしか思えない。どういうことだ、わたしはもっとおいしいドライカレーを作れるはずなのに何なのだ! それで一週間ほど激しく考えてみたのだが、結局、いつもよりひき肉を多く入れたことが原因なのではないかと思い至った。というか、いつも220グラムしかひき肉を入れない代わりに、たまねぎを作り方の1.5倍ほど多めに入れていたのを、ひき肉が潤沢にあるばっかりに怠ったことが悪いのではないかと。わたしが自分で作ってうまうまと食べていたドライカレーの味を決めていたのは、おそらくたまねぎなのである。確かに、なんか甘味というか旨味というかが足りないと思っていたのだ。何でも肉がたくさん入っていればおいしくてうれしいというわけではないのだろう。たまねぎを軽く見ていた。不覚だった。

 八百屋さんで買える好きな食材、と言うと、わたしはすごい速さで「じゃがいも」と答えるのだが、汎用性と重要度が高いのはたまねぎである、ということは理解しているつもりである。たまねぎも、二番目ぐらいに好きな野菜なので幸運だったと思う。たまねぎは、だいたい何に入れてもおいしい。じゃがいもと炒めても、カレーほかの煮物として煮ても、お味噌汁に入れても、ピラフに入れて炊いても、オニオンリングや天ぷらとして揚げても、生のままサラダに加えても、そしてただたまねぎをレンジで蒸して塩だけで食べるにしてもおいしい。世界のいろいろな国の人に料理を教わるという仕事をされたことがあるという西加奈子さんによると、「他の国の料理ではもっとたまねぎを使う」とのことで、自分もけっこう使ってるつもりだったのだが、世界のほかの場所ではまだこれ以上たまねぎを食べるのかと思う。それも理解できる。安くて調理の手間のかからない、おいしい野菜なのである。にんじんをみじん切りにするとなると、あーにんじんか、とちょっと気が引けるのだが、たまねぎならそうも思わない。あの無数の層によって、はじめから切り離されている向きもあるため、楽勝である。

 それでも何か、たまねぎには、いつも近くにあるものなのでそれほど気を遣わなくていいものだ、というちょっと軽んじた認識がある。どうしてか。わたしが昔、たまねぎ畑の近くに住んでいたからなのではないかと思う。小学1年の2学期から、小学3年の1学期まで2年間住んでいた土地には、田んぼのほかにたまねぎ畑がたくさんあった。たまねぎ畑の中ほどにはたまねぎ小屋があって、一年のある時期、そこは収穫されたたまねぎではちきれんばかりにぎっしり詰まった状態になっていた。どうしても悪いことをしてみたかった小学2年の頃、わたしはたまねぎ小屋からたまねぎを一つくすねて、すごく親に怒られたことがある。あんなにたくさんあるんやからええやん、何やったら道に転がってることもあるんやし、などと思っていたけれども、今になるとそれはたまねぎを軽んじてたな、ということがよくわかる。もしかしたら、わたしが今回たまねぎのことでドライカレー作りを失敗したのも、この件が関係しているのかもしれない。たまねぎを侮ってはいけない。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。