第六十九回

トマトとの邂逅

 今のところまだ魚介はだめだけれども、野菜はほぼ克服できた、と思う。にんじんもピーマンもしいたけもわたしは食べられる。個人的に苦手だったかぼちゃとなすも、やたら甘く煮るという母親の料理の仕方が自分に合わなかっただけで、どちらも甘くしなければ食べられる。なすなんかは、どちらかというと好きなぐらいだ。出された野菜をちゃんと平らげることができると、おとなになってよかったな、としみじみ思う。同時に、「母親の味付け」というものが子供の味覚に及ぼす因果に思いを馳せる。

 そういうわけで、大部分において不自由な自分にとっての数少ない不自由でないことが、「わりと野菜を食べられること」という小学生レベルのわたしなのだが、トマトが好きであることには常にそこはかとないお得感を覚えている。トマトも、なすと同じように、最初は特に好きでもなかったし、とにかく主張が強くて酸っぱい味というのに馴染めなかったのだけれども、現時点ではかなり好きな野菜だと思う。

 トマトが嫌い、という人は、やっぱりファーストコンタクトがあんまり良くないんじゃないかと思う。たとえば、なみなみと盛られたキャベツと、それに添えられた薄切りきゅうり、そしてその横に鎮座している櫛形に切られたトマト、という図は、小さい頃に出されたトマトの情景の定番と言えるものだと思うのだけれども、この食べ方は、個人的には別においしくない。キャベツやきゅうりといったくせのない野菜の中で、トマトがあまりに目立ちすぎているのではないか。他の野菜を圧倒してしまう、酸っぱいわ赤いわ中ほどからはなんか緑の汁みたいなんが出てきてるわ、というトマト。これではあまりにも悪役然としている。

 トマトはやっぱり、何かの横に添えられているものというよりは、主役級に据えてこそよい働きをする野菜だと思う。大学生の時、『セイシュンの食卓』という料理本で、冷やして潰したトマトに、にんにくとバジルと塩少々を混ぜただけのものを、同じく冷やしたパスタにかけて食べるというレシピを知ってさっそく作り、これはうまい、と感心した。今までのあの悪役具合は何だったんだろうトマト。まるで、美人が過ぎるため、逆に主人公よりは敵役のオファーばかりが来る女優が、一人で主演してみたら演技もものすごかった、みたいな感じである。言い過ぎか。それからはすっかり、主役としてのトマトを好きになってしまった。

 料理をするようになると、トマトが脇役や主役といった表面的なものを超えた、かなり根底を支えるような活躍をしていることに気が付く。スパゲティのミートソースは「ミート」とあるけれども、トマトソースに肉やたまねぎやにんじんといったものを混ぜ込んだものだし、カレーにもトマトが欠かせなかったりする。これは、敵役ばっかりやっていた美人女優が主演を経て、物語には欠かせない「美人」という冠のはずれた女優になるのと同じなのではないかと思う。トマトよ、キャベツときゅうりの横で毒々しい異彩を放っていた頃から、ずいぶん遠くへ来たな。

 冷やしたトマトのパスタに辿り着くまでには、生のトマトも捨てたものではないという認識の変化があったわけで、そこには、小学6年の時に入っていた飼育・栽培委員会での経験が挟まっていると思う。飼育・栽培委員は、ウサギの世話をしながら、学校の花壇の世話をするという、今考えると夢のような仕事をする委員なのだけれども、わたしの通っていた小学校では、プチトマトを盛んに栽培していた。夏休みにも登校して、委員たちはプチトマトの面倒をみた。もはや十代のきざはしに立ち、野菜の栽培、楽しいね、などと真っ直ぐではいられない、とやさぐれ、「夏休みに委員会とかだるい」という態度を身に付けつつあった委員のわたしたちは、このぐらいはいいだろ、と育てているプチトマトをむしって食べることにした。その時は、暑さでやけになっているということを示すだけのつもりだったのに、そのプチトマトはおいしかったのである。わたしたちは、次々にプチトマトをむしって食べた。気が付くと、最後の1、2個というところまで食べてしまっていて、委員たちはひそひそと話し合い、それは申し訳程度に残すことにした。

 みずみずしくて赤いプチトマトだった。直射日光の下で、何もつけずに食べたあのプチトマトたちが、思えばわたしとトマトの良い関係の始まりだったように思う。

69トマト.jpgillustrator.jpg

津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。