第七十回

手のひらの中の蚊

 8月20日は世界モスキートー・デー(蚊の日)だという。もう字面だけで腕や脚がかゆくなってくる感じなのだが、1897年の8月20日に、イギリス人医学者のロナルド・ロスさんが、ハマダラカがマラリアを媒介することを発見したことから記念日になったのだそうだ。断じて、蚊を殺さず、虫よけスプレーは使わない、みたいな蚊に対してやさしくなろうという日ではない。むしろアンチ蚊の日だ。

 蚊は、かゆがらせるというただいらつくことから、死に至る病まで媒介する、人間に対して多彩な攻撃を繰り出す、あまりに矮小な生き物である。羽音も、想像するだけでうおおと肩が竦む不快さだ。他にも、ハエやゴキブリやスズメバチなど、不快だったり怖かったりする昆虫はたくさんいる。けれども蚊のイヤさのユーティリティ性に、彼らは敵わない。世界では30秒に1人がマラリアで命を落としていると聞くと、人類の敵に比する昆虫の最たるものは蚊なのかもしれないと思える。なのに、あまりに小さいので、プゥ――――というあの羽音が聞こえても、「蚊か」ぐらいにしか思わない。書いていて本当に狡猾というか、それも無自覚なたぐいのものに思えてくるので、なんだったらわたしは蚊のライフスタイルを見習うべきなのではないかとすら思えてくる。蚊のように弱々しく近付き、気にもとめられず、いつの間にか刺して、あれよと思っているうちに致命傷を与える。やっぱりだめか。ひどすぎるか。

 わたしの血液型はO型なので、誰かと一緒にいても自分だけ刺されているというシチュエーションが多く、蚊はO型が好きなのかしらとずっと思っていてこのたび検索してみたのだが、大変遺憾なことに、やはりO型が好きらしい。だよな、自分はともかくとしても、周囲のO型は気のいい人ばっかりだもんな、おおらかさに飢えてんのか、蚊、というわけではなくて、O型の分泌する成分に蚊の好むものが含まれているという。

 だから子供の頃は、ほとんど毎日蚊に刺されていたのか、と思い出す。毎日である。これをお読みになって、「毎日!?」となるか「あーあるある」となるかで、その人の血液型がわかってしまうかもしれない。だいたい外で遊んでいることが多かったし、わたしには蚊に刺されることが普通だった。もはや蚊に刺されすぎて、あまり薬を塗ったという記憶すらない。虫よけスプレーをかいくぐって刺してくる蚊に、だいたい5箇所以上を提供し、ぼりぼり掻いているうちに一日が終わるような日々だった。今はそれほどは刺されない。夕方の散歩に出かけて、まあ1箇所は刺されて帰ってくるという感じだ。そして、あー夏だなあ、と思う。ばかみたいに暑いことや、明け方にセミが鳴き始めることと同じぐらいかそれ以上に、そう思う。

 血を吸うのはメスだけである。オスは、果実の汁や水を吸って生きているそうだ。そう知ると、何かオスは穏便な生物であるような気がしてくる。人間や獣の血は、メスの卵巣の栄養になり、血を吸わないとメスは卵を産めない。わたしたちを刺しているあの蚊、わたしたちがときどき叩き殺すあの蚊は、すべて子を産む準備をしているメスであるということになる。そう考えると感慨深い。といってもわたしは、ものすごくどんくさいので、5年に1回ぐらいしか自分の血を吸っている蚊を叩き殺すということができないのだけれども。あとは吸われるままだ。自分がそんなに無頓着でいることによって蚊が栄えるのはだめだとも思うのだが。

 わたし以外の人は、本当に上手に蚊を叩いて潰す、と思う。話しているうちに、目の前の人の目が泳ぎ始めて、ばしんと何もない空間で突然両手を叩く。わたしは手を開いて見せてもらう。その人の手のひらで、赤い血をにじませて蚊が死んでいる。蚊は死んでいるが、自分たちの中に血が流れていることをいやでも思い出す、何かの境界を表すような光景は独特だ。もしかしたら、蚊を殺した時だけにしか喚起されない気分というものがあって、それがあの、わたしか誰かの血が別の生き物の中にあった、という得難い現象から受け取る感触なのかもしれない。そしてかれらはみんなメスなのだ。

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津村記久子(つむら・きくこ)作家。1978年、大阪生まれ。著書に、『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」より改題、太宰治賞)、『ミュージック・ブレス・ユー!!』(野間文芸新人賞)、『アレグリアとは仕事はできない』、『ポトスライムの舟』(芥川賞)、『ワーカーズ・ダイジェスト』(織田作之助賞)、『とにかく家に帰ります』など多数。12月10日に中央公論新社より最新作『ポースケ』が発売。