声楽界の歴史は、マリア・カラス以前とマリア・カラス以降に分けられる、と言われるほど、マリア・カラスの芸術はとてつもなく大きな存在です。

 

 1曲のアリアの中で、ゆっくりした「静」の柔らかさから「動」へ、そして張り裂けんばかりの壮絶なクライマックスに至り、また心の奥底へ静かに消えていく過程。そのドラマを描くにあたり、表現の激しい振幅をフルに使いこなし、これほどに脳髄に訴えかける演奏をした歌手は、ほかにいません。良い意味にも悪い意味にもビロードとも比喩される蠱惑的な声で、これをやられるものですから、一度その演奏に心を奪われると、衝撃のあまりにばかばかしくてもうほかの歌手の演奏を聞く気がまったく起こらなくなる、まさに危険な麻薬です。

 

 ルチア・アリベルティは、マリア・カラスとあんまりそっくりな歌い方をするので「マリア・カラスの再来」とも称され、それは実に的を射た評と言えましょう。歌い方だけではなく顔やヘアスタイルまでそっくりにしているため、意識して真似をしているのかと勘ぐりたくもなりますが、その素晴らしい歌唱力を目の当たりにすると、そんなケチはとっくのとうにどうでもよくなってしまうのです。

 

 アリベルティとどのような契約が交わされていたのかは知りませんが、ドイツでは必ずベルリン・ドイツ・オペラで歌っていました。私が入団した1997年当時は、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団のランクも今よりずっと高く、給料がドイツ全オペラハウス中で一番良かったのですよ。世界一、なんていう歌手がしょっちゅう歌いに来ていました。そんなわけで、アリベルティとも何回もご一緒いたしました。

 

 「ルチア」「夢遊病の女」などアリベルティがタイトルロールを歌うソプラノ独擅場のオペラが、毎回完売。客席で呼吸音を発することすらも憚られるようなピンと張りつめた空気の中で、壮烈なドラマの世界がステージ上のアリベルティただ一人により繰り広げられました。

 

 1950年代の録音に聞くことができる凄まじく劇的な歌唱表現、数少ない貴重なモノクロライヴ映像に見ることができる説得力満点の演技、そしてそのお客さんの熱狂状態から察するに、マリア・カラスはおそらくこの1.5倍くらい上を行っていたのかと思われます。アリベルティ本人に感動しながら、重ねて心の中でマリア・カラスにも感動していたのは、おそらくオーケストラボックスで演奏していた私だけではないでしょう。

 

 さて私は今、デュッセルドルフ、ハイルブロン、カッセルの順に催されている「アリベルティ・オペラアリアコンサート」で、演奏しています。私にとりまして本当に久しぶりのアリベルティですから、とても楽しみにしていました。期待通り、相変わらず実に素晴らしいです。

 

 練習では、風邪を引いたと言って、やる気があるんだかないんだかサボりながら1オクターヴ低く歌うのも昔からの癖で、ベルリン・ドイツ・オペラでもいつもそうしていましたっけ。

 

 本番は打って変わって、アリベルティが発する驚異的な求心力、オーケストラ団員もエネルギーをもらって熱い演奏、客席も興奮のるつぼと化し、それはもう素晴らしいコンサートでした。ステージ上でも思わず目がうるうるしてしまいます。

 

 奇をてらうような安っぽい表現は一切なし。しかしながらその表現は、静かな部分はより静かに、激しい部分はより激しく、歌い込む部分はこれ以上ない極限までベルカントに、というように常に最上級の強烈さです。イタリア人なのにもかかわらずアンコールに取り上げた、ドイツ語オペレッタ・アリアであるヴィリアの歌でも、その甘美な美しさになんとまあうっとりとさせられたことでしょう。いやあ、参りました。

 

 とびきり好演だったハイルブロン公演終了後に楽器を片付けていると、ご機嫌のアリベルティがわざわざ私を探して来てくれて、「ブラヴォー! あなたのオーボエ、素晴らしかったわ」と言うのです。「あらあら、何ということでしょう。実は、私はベルリン・ドイツ・オペラであなたと何度もご一緒していました。大ファンです」とたどたどしい英語で申し上げると、驚きながらもとても嬉しそうに、オペラアリア集の最新CDにサインをしてプレゼントしてくれました。

 

DSCN0597.JPGのサムネール画像  このCDEarly Verdi Ariasは、ヨーロッパで先行発売、日本でも間もなくリリースだそうです。

 

 「久しく日本公演をしていないのだけれど、次の日本公演、どこか日本の音楽事務所に聞いてみてくれるかしら?」あらあら、大役を仰せ付かってしまいました。オーボエ奏者でしかない私に何ができるかわかりませんが、信奉者の一人として力になれれば嬉しいなと思います。

 

 ルチア・アリベルティ日本公演、実現するといいですね! さて、どこの音楽事務所が企画してくださるでしょう? アイディアをお寄せください。

 

 

PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。