19868月早朝、生まれて初めてのドイツ滞在地ハンブルクに到着。せっかくドイツに来たのですからと、「最もドイツらしい黒いパン」をスーパーで買い求め、バターを塗ってかぶりついた、その瞬間の衝撃は絶対に忘れません。「これはパンか? 世の中にはこんなパンもあるのか? 日本とはまったく文化が違う、えらい所に来てしまった」

 

 ドイツ人が初めて日本に来ると、四角くて白い空気含有率50%以上のスポンジみたいなパンしか売られていないことに愕然とし、ドイツの頑丈な全粒粉パンを必死になって探し求めます。そしてこれに懲りた2回目からは、ドイツを出国する際に必ずドイツパンをトランクに詰め、日本に持ち込むようになります。

「三浦です」と素晴らしく堪能な日本語で名乗るドイツ人から、電話がかかってきました。日本好きが高じて本当に日本人になってしまったドイツ人なのか、日本人家庭に養子に行ったのかなどいろいろ考えてみましたが、ほどなくして分かったのは何のことはない、ミュラーさんという方でした。日本にはもう何回もおいでで大変お詳しいですから、食パンをどう思うか聞いてみましたところ、なんと「あれはパンではない」と、そこまで言うではありませんか!

 

 ドイツ人のパンの国としての誇りはそれはもう大変なもので、「パン文化」なんていう言葉さえよく使われます。精麦した小麦粉から作られる白パン、ライ麦粉から作られる黒パン、その両者を混ぜて作られる灰色パン、全粒粉パン、それにカラス麦や大麦が混ぜられたもの、ヒマワリや南瓜の種が入ったり、麦などが粒のまま生地に練り込まれたパン、その他、種類夥しく、300種とも言われています。種類だけではなく、一人当たりのパン消費量も、世界一多いそうです。

 

 朝食に供されるパンでは、ブレートヒェンという、強いて言えばフランスパンを手のひらサイズにしたような小麦の白いプチパンが、最もポピュラーでしょうか。ドイツ国内でも地方によって名称、形、レシピが異なります。外側がカリッと内側がしっとりとしていると良いとされ、その度合いも地域差あるいは個人の好みにより幅があります。ヴッパータール交響楽団の同僚フリッツは、その度合いに非常に強いこだわりがあり、行きつけの町内パン屋でその朝の出来によっては罵るだけ罵って買わずに帰ってしまうので、特に難しい客として恐れられていました。

 

 このプチパンを、ナイフで水平に上下2等分し、バターをたっぷり塗り、ハムやチーズ、ノルウェー産のスモークサーモンなどを載せて食べます。

 

 日本語の「夕飯」そのままの「Abendbrot(直訳すると夕パン)」というドイツ語が、ございます。一日のメインのしっかりとした食事を昼食時にとるドイツ人、夕パンは黒パンにハムやチーズというように質素なことが多いようです。腹一杯にしたまま就寝しないということで、胃に良いんだとか。

 

 ドイツ人家庭からお夕食にお呼ばれして、思いっきりお腹を空かせてお邪魔するとします。前菜にスープが出て、黒パンと数々のパンのおかずが登場、ここで腹一杯詰め込んではメインディッシュが入らなくなるので、「もっとどうぞ」と勧められるのを固辞しセーブして待っていると、あろうことか、もう食後のコーヒーが出てきてしまう、なんていうことが起こり得ます。自分のお腹が一杯にならないだけでなく、やはり日本人はすし以外は口に合わないのだろうかと、ホストに余計な気を遣わせることにもなりかねません。

 

 夕パンにはよく薄切りの黒パンが出てきます。特にライ麦全粒粉が入っていると、かなり黒っぽく身の詰まった重量感のあるパンになってきますから、厚切りにはせず、7ミリくらいにスライスします。この最もドイツらしいライ麦パンは、ほろ苦かったり酸っぱかったりと個性的で、日本人には少々とっつきにくいかもしれません。このパンの食べ方としましては、その個性的な味に対抗すべく日本でするよりチーズやハムを多めに載せ、パンとおかず両者の味を戦わせることです。そうすることにより、白パンにはないとても充実した味わいを楽しむことができます。バターを塗るだけで黒パンを食べるということはドイツではあまり一般的ではなく、おかずとの組み合わせを楽しむパン、と言うことができるでしょう。チーズやハムやパテの種類も豊富、さらにルッコラなどの葉っぱ類、ピクルスなども一緒に載せると、さらに味わいが膨らみます。

 

 究極のドイツパンは、何と言ってもディンケル(Dinkel)という小麦の祖先にあたる原種から作られる全粒粉パンでありましょう。これこそ、ドイツを訪れたらぜひお召し上がりいただきたいパンでして、私のイチオシは、ハンブルクのエッフェンベルガー(Effenberger)というディンケル全粒粉パン専門店。ディンケルの単位面積当たりの収穫量が少ないので高価ですが、小麦より良質の栄養分が含まれ、穀物の素晴らしい香りが立ち、ドイツパン文化の頂点とも言えます。さらに、全粒粉パンですから、精麦すると失われてしまうミネラルやビタミン、繊維質を、豊富に摂取できます。ディンケルという穀物を介して人類が太陽と大地の恵みにより生かされているのを実感できる、このとっておきのパン、良質の玄米に通ずるものがあります。

 

 このような複雑な味わいには乏しいながらも、日本のパンの良いところは、バターを塗っただけ、あるいは薄いハム1枚はさんだだけで、白い小麦粉そのものの優しさを存分に楽しめることです。そういう意味では、玄米より白米ご飯、あるいは蕎麦よりうどんの味わいに近いと言えましょう。台湾のパンは日本のパンよりさらにこの傾向が強く、その上しっとりモチモチしていて、米食民族共通のパンの好みここにあり、と納得いたしました。

 

 朝食のブレートヒェンでも、バターだけたっぷり塗ると日本のパンと同じ白い小麦粉の優しさを楽しめますから、私はよくやります。また、ドイツのバターは安くて美味しい! ただし、ドイツ人に見られると、そんなことしているから日本人はタンパク質不足で体格が悪いのだなどといちいち余計なことを言われそうですから、こっそり隠れて......。

 

 

 ベルリンで一番評判のパン屋、Brotgarten(ブロートガルテン)

DSCN0609.JPG

 

入手したライ麦パン

DSCN0631.JPG

 お皿代わりに、一人用の小さなまな板に載せて  DSCN0632.JPGのサムネール画像バターをたっぷり塗って。擦り込むのではなく、固形物を盛るようにたっぷり塗るのがドイツ流です。  DSCN0636.JPG

 

お店で聞いたところ、チーズとの組み合わせが一番お勧めだというので、エメンタールチーズの大きなスライスを載せました。

DSCN0641.JPGのサムネール画像のサムネール画像 

PROFILE

渡辺克也 WATANABE KATSUYA

1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。