オーボエの音を良い音で録音するのは、他の楽器に比べるとそう簡単なことではないそうです。原理的にはチャルメラと同じ楽器を、オーボエ奏者は、まろやかな響きになるように一所懸命心掛けて日々練習します。そうやって頑張っているのに、いざ録音となると、マイクのタイプ、楽器とマイクの距離などによっては、響きの果汁部分が少ししか拾われず、チーッというスジだけがしっかり録音される......。そういう音で録音されると、この楽器は途端にものすごく下手くそに聞こえるのですね。オーボエ奏者にとってはガックリする一瞬です。オーボエの理想音としてチャルメラに近いイメージをお持ちの録音技師さんも結構おいでですから、そのような場合、対話と試行を繰り返しながら、響きの果汁部分を沢山拾ってもらいまろやかな音にだんだんと近づけてもらいます。忍耐のいる作業といえましょう。 録音技術が未熟だった時代においては、響きの果汁部分を拾うことはなおさら難しかったと思われます。オーボエの音がスジのような音に録音されてしまったオーケストラ録音の例としましては、トスカニーニ指揮のNBC交響楽団と、メンゲルベルク指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が、双璧でしょうか。同じオーボエ奏者として、実際にこんな音で演奏されていたのではないだろうにと同情と憐憫を禁じ得ない、とにかくCDを聞く限り誰が聞いても細くて硬い<針金>のようです。 さて、放課後の千葉県佐原(現香取)市立津宮小学校のよく響く階段でヴィブラートをかけてリコーダーを吹き、また鼓笛隊では初代トランペットを任されたワタナベ少年、埼玉県浦和(現さいたま)市立南浦和中学校吹奏楽部では、トロンボーンを担当していました。2年生の秋、先輩が引退されたので、オーボエに空きが出ました。この頃トスカニーニばかり聞いていましたから、思ってしまったのですねえ。「あの程度のオーボエだったら、私でもできるのではないか?」 吹奏楽部顧問で現在蓮田市教育委員長を務めておいでの関口茂先生が、オーボエに立候補した私にOKを出してくれました。これがなかったら、私は今オーボエを演奏していないかもしれません。 さらに運が良かったのは、浦和市中学校吹奏楽連盟創設にも尽力された大谷口中学校吹奏楽部顧問の川崎哲也先生のご提案により、連盟が当時桐朋学園大学音楽学部オーボエ専攻の学生さんだった東郷昭彦さんを招いてくれ、まだマイナーな特殊楽器と言われていたこの楽器の良質のグループレッスンを、受けることができたことです。 ギネスブックに世界一演奏の難しい楽器として認定されているだけあり、初心者にとっては本当に大変な楽器と言えましょう。楽器に何十個も付いているネジ調整といい、リードの状態の調整といい、本当に微妙で、そのバランスが崩れると、途端に音すら出なくなってしまいます。ネジ調整は、人間が動かすことができる最小単位でありましょう、時計の針にたとえると1分、つまり6度回すだけで影響がかなり出るものもあります。リードも、ナイフで糸くずほどの量を削るだけで、響きがガラッと変わることがあります。また今日削って最良の状態に調整しても、そのバランスは1週間後には確実に崩れています。扱い慣れていないと、まさに悪夢以外の何物でもありません。東郷さんはそのいずれも大変上手な方で、私達生徒5人の面倒を完全に見てくださり、演奏そのものだけに集中できましたので、本当に助かりました。 その頃、オーボエ関係のレコードをたくさん聞いていくうちに、カール・シュタインツ、ローター・コッホといった蠱惑的でまろやかなドイツオーボエにあこがれるようになり、ますますオーボエの魅力に取りつかれました。ヴィンフリート・リーバーマン、マンフレート・クレメント、ハインツ・ノルトブルフ、ハーゲン・ヴァンゲンハイムといった奏者を目指してドイツに住んでしまう、私の今の生活の伏線となったのです。 予期せず与えられた何かがきっかけで一生が大きく変わる、ということがたくさんあります。演奏を職業としていると、場所の移動や人との出会いが多いですから、なおさらです。私にとりましてオーボエ人生黎明期でありました、南浦和中学校吹奏楽部の2年生秋から3年生秋までは、本当に貴重な1年でした。
1966年生まれ。14歳よりオーボエをはじめる。東京芸術大学卒業。大学在学中に新日本フィルハーモニー交響楽団入団。90年に第7回日本管打楽器コンクールオーボエ部門第1位、併せて大賞を受賞。91年に渡独し、ヴッパータール交響楽団、カールスルーエ州立歌劇場管弦楽団、ベルリンドイツオペラ管弦楽団の首席奏者を歴任。現在ソリスツ・ヨーロピアンズ・ルクセンブルクの首席奏者として活躍中。CDに『ニュイ アムール~恋の夜』『∞~インフィニティ』『リリシズム―オーボエが奏でる日本の美』(以上、ビクターエンタテインメント)、『インプレッション』『サマー・ソング』『ポエム』(以上、ドイツ盤Profil、日本盤キングインターナショナル)など。ベルリン在住。
渡辺克也公式サイト:http://www.katsuyawatanabe.com/